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3連休の始まり・・・とは言っても3連休じゃない方は沢山いるのですが・・・(やまごんが、「普通の働き人は3連休か!」って言っていたのが面白かった・・・普通の働き人って表現が)・・・本当に寒かった!
やまごんがちょっと楽しみにしていた雪は降らなかったけど。
先日、あつむくんに「だってそれ、フトン着ているのと同じだもんね!」みたいな事を言われ、はっと悟った私ですが・・・寒かった!
悟った事というのは・・・どうりで近年、「暖冬だなあ」とか、「ここ何年かで、冬の寒さに強くなったなあ」とか感じていたわけだわ・・・と言う事だった。
なんだ私、フトン着てるから寒くないんじゃん!って悟ったという・・・何とも間抜けな話なのですが。
フトンというのは・・・パタゴニアのダウンジャケットの事です。アラスカへ行くために買った・・・そして、まだ行けていない!
あまりにも毎日暖かいので、私にとっては秋用のダッフルコートを着てみたら、普通に寒かったです。
ダウンのあたたかさは、凄いんだなあ!
さて。
今週は・・・忙しかった・・・
ので、何となくテンションが高めの私です。
何と言うか・・・頭がフル回転している感じ。
占いの類に、依存はしないけれど、やっぱり面白いなあと思う。
特に、占星術とか、細木数子さんの六占星術も面白いと思うし、夢占いも面白い。手相だって、きっとその刻まれた線には意味があるのだろうと思う。
身体のパーツのひとつひとつ、皆それぞれ違っていて、そう生まれてきた意味があるように、生まれた日にも意味があると思う。
そう言った意味で、そういうのを掘り下げて研究してきた人が編み出した占いというものに、生命の不思議を知るひとつの窓口があるなあと思うから、面白いと思うのだ。
直感で、これは聞いといた方がいいかも・・・と思った事は、信じていなくても、ちょっと考えてみてもいいんじゃないかなあと思う。
って、こんな話を書くのも、今週、自分の中で面白い変化があったから。
急に、何かのつかえがとれたように、まわらなかった頭がフル回転で動き始めて、次々とアイディアとか言葉が浮かんできて、止まらなかったから、取り敢えずノートに書き留めていた一日があった。
その前日までは、明らかに思考が停止していたような気がしていた。
こう言う事は、時々ある。どんどんどんどん考えが生まれては先へ進み、まさに、コップから水が溢れるみたいに色々と生まれてきちゃうとき。
それで、今回、あまりにもその前日との差が激しくて、私は同じ人物かしら?とさえ思ったので、試しに細木さんの占いでどんな日だったか見てみたら・・・ビンゴだったのです。
前日までは、いわゆる大殺界。そして、アイディアが生まれてきて、フットワークもいきなり軽くなって、色々と調べたり行動する意欲も沸くわ、色々な願ったりかなったりの本に出会ったり・・・とか、色々あった日が、“種子”といわれる日だったのだった。
というわけで、こう言うとき、とての素直な私は、種子のその日に出会ったり考えた事は、育てていこうと思ったのでした。
占いって、そんなふうにヒントすると、面白い事も結構あるんじゃないかなって思う。
当たるとか、当たらないとかは、あまり関係ないっていうかね。私はそう思っている。
いわゆる、「知る」ためのひとつの方法としてとても面白いと思うだけ。
占いがどうあれ、自分の人生は、自分が切り開いていくものだから、例え悪い占いがあったとしても、それに振り回されてはいけないと思う。
愛と感謝の心、慈悲の心を持ち、実践していけば、悪い運気だって吹き飛ばせると思う。
それに、悪いと思うような事だって、自分の人生にとっては最善の学びなんだと思えば、辛い中にも歓びを見いだして乗り切れるんじゃないかなあと思う。
悪い占いが当たっていると思う時には2パターンがあるような気がしていて、人生を適当に生きているから当たってしまうという場合と、しっかりと地に足つけて心身ともに心掛けて生きていても当たってしまう場合。後者については、きっとそれは避けられなかった人智を越えた宿命で、それは決して悪い事じゃないと言う事。そう言う人だからこそ、与えられた学びなんだと思う。
とにもかくにも、占いに振り回される事なく、今、この時を大切に生きていきましょ。
私自身、睡眠不足などで、ちょっと気が衰えているなあと思う時、光に包まれている事と、金色のベールで自分が覆われている所を想像します。
こう言う事って、とても役に立つなあと思う今日この頃。
なんていうか・・・とても気持ちが良くなって元気になっていく。
そう言えば、毎年年末になると、来年の手帳の色を真剣に考えるのですが、今年の色は是非黄色にしたい思いついたら、私の毎年買っている手帳には黄色がなかった。
それで、ある色のなかから直感で選んだ色が金色だった。
何だろう。色の力ってあるなあと思う、今日この頃です。
何故かイライラしちゃっていたから、“怒り”についての智慧については本当に心が洗われる思いがしました。
そうかあ、そういう大切な智慧をちょっと忘れていたんだなって。
まだまだだなあ、私!と思ったら、ムクムクと元気が出てきて、とても気持ちが明るく、軽くなりました。
何て言うか、チベット仏教をああやって読み解いていったダライ・ラマの素晴らしさは、なかなかうまく語る事が出来ない。
そして、もっと元気になるためには・・・太郎さんに会うのがいいなあと思う。
本とか、絵とか、記念館に行ったっていい。
そうそう。
ちょうど今、岡本太郎記念館の企画展が、『透明な怒り』と題されているのだけれど、怒りにも2種類あって、太郎さんのように怒る事は、とても素晴らしい事だなあと思うんです。
だけど、人を一瞬でも憎んだり蹴落としたり・・・そういう風に思ってしまう黒い怒りは、全ての善い行いをなかった事にしてしまうぐらいの力がある。光すら暗い色で覆い尽くしてしまう力がある。
だから、イライラしてきたら、ちょっと自分から一歩離れてみて、観察してみるといいんじゃないかなあと思う。何でこんなにイライラしているんだろう?原因は?え?そんなこと?例えばこれがハワイだったら、NYだったらどう感じるだろう?とか・・・色々な角度から見て行くうちに、その怒りがなんともばからしい事だったという事実に気がついて可笑しくなってしまうだろうと思う。
反対に、よき事のために、怒ることからは、目をそらしたらいけないなあと思う。
太郎さんが、「自分の中に毒を持て」とおっしゃっていたけれど、自分なりの哲学を持って怒っていかないと、生み出して表現していかないと、自分の魂が輝かないし、世界と響きあえないと言う事だろうと思う。
世界中が歓喜するためには、ひとりひとりの『透明な怒り』がどんどんぶつかりあっていくべきなんだろうな。
私は、祈る事を毎日しているけれど、祈っているだけでは、もちろん足りないと思っている。
具体的に実践して行く事が合わさって、やっと面白い形が見えてくるのだと思う。思いがけずに。
例えば、デザインなんかもそうだ。不思議なもので、頭で考えるより、手を動かしていると、思っても見なかったアイディアが生まれて、夢中になているうちに、何だか分からないけれどいいものが出来てしまった、って言う事が殆どだ。
それと同じで、具体的に行動していく中で、人は大きく成長していけるのだろうと思う。
もちろん、その中で忘れては行けない心もあるだろう。
愛とか感謝とか、慈悲の心とか。
そして、私たち人間は、宇宙とこの地球の自然、ほかの生命と共に在る事を忘れてはいけない。
というわけで、すっかり書こうと思っていた吉祥寺でのお話は書く余力がなくなってきてしまいましたが・・それはまた次(明日?)の更新でお話ししようと思います。
ではでは、みなさんもよい週末をお過ごしくださいね!
Aloha
love ,
Ryoco
そう言えば、ショッキングな事に、何となく危惧していたけれど・・・
私は乗り気ではなかったのに、Mieと不動産やさんにプッシュされて、ここに引っ越しを決めた
私なりの大きなポイントのひとつが、この景色だったのに、
どうやら、向かいの会社のビルが壊された後に出来るのは、マンションらしく、
それが出来れば、確実に景色が奪われてしまいます。
それも、今年中にはそうなるのでしょう。
いよいよ、本気で引っ越しを考えるべきなのかなあ・・・と思うけど、先立つものがない。
ああ、無常とは言え、もっともっとこの景色を見ていたかったなあ。
もうじき「さようなら」することになるのかと思うと、
今こうして広がっている景色が、奇跡みたいに思える。
さて〜
すっかり、風邪なのかなんなのか、妙にいいテンションになっています。
こう言う時って、とても疲れてボロボロみたいなんだけど、ふっと光をつかんで、
歓喜できる瞬間を、繊細に捉えられる感じがする。
こんばんは、みなさんはどんな夜を過ごしていますか?
こういう微妙な風邪は、大人と会うのは大丈夫かもしれないけど、子供と会うのは危険な気がします。
・・・・なので、本当はとっても会いたかったアサちゃんのサキちゃんに会うのは諦めました。
また今度、元気な時に遊ぼうね!
今日は、身体がだるいにも関わらず、何だか行きたくなってしまい、電車を降りてabcと言えば青山ブックセンターに行ってきた。
こういうギリギリのというか、結構いっぱいいっぱいの体調のとき、自分の行動はとても雑で効率が悪いようで、実はとても的確に・・・というか、見えない誰かに助けてもらいながら、結局は効率よくまわれているから不思議だ。
着くなり、金原という人のサイン会の案内が目に入ったけど、素通りして、入口のクリスマスコーナーも気がつかず、何故か店の奥まで行く。そして、探していた雑誌のバックナンバーが置いていない事を確認すると、もう用事はなくなってしまったのだけど、ふらふらと絵本のコーナーへ行った。
ぼや〜っとした頭で、本棚を見つめていた。
そして、これ、これ、と何となく気になった本を開く度に、別にクリスマス向けの本というわけでもないものでも、天使がでてきて、心にぽっと光が灯ったような気持ちになって、微笑んでしまった。
最初に手に取った2冊の本が、とても心にうわ〜って来て、涙が出そうになったくらい感動して、改めて絵本の素晴らしさを感じたのであった。
まさに、私のことが書いてあるなあと思った。絵本とは、そういうものじゃないだろうか。
感動した本ならば、きっとそこにあなたもいるはず。
1冊は、クリスマスのお話なので、はるちゃんのクリスマスの贈り物にすることにした。
それから、ふら〜っと一周して、再度、この本屋は不思議だ・・・・まるで私のためにある本屋のようだ・・・と思ってしまう程、あまりにも自分が愛する人たちの本のボリュームが多くて感動しました。
絵本のコーナーでは、私の大好きなばバーバラ・クーニーのフェアをやっていましたよ。
こんなに一同に見れるなんて、まさに夢のようなコーナーでした。
フラフラして、また絵本のコーナーに戻ってて、ふと目にした仕掛け絵本を手に取って開いたら・・・
開いたページに天使があらわれて、さすがにビックリした。
もはやこれは、いつも私の事を守ってくれている天使さんが、「いつも側にいるからね!」と、教えてくれているのだろうなあと思ってしまう程でした。
こういう風に、受け止めて行くと、人生は苦しい事ばかりに見てたって、愉快なことに溢れているのです。
本屋に入って、一番最初に手にした絵本。
これは、本当に感動しました。
これは、出会いだなあ!と、本当に思った。
私は、きっとこれからも何度でもめくって行くんだろうなあと思う。
きっと、この絵本があれば大丈夫って思える瞬間が、いっぱいあるだろうと思う。
荒井良二さんの絵はとっても好きだけど、中でもダントツにこの絵本が好きだ・・・と確信した。
そう言えば、大好きな茂木健一郎さんの出ている『プロフェッショナル仕事の流儀』、次回は荒井さんですね。見逃さないようにしないと・・・・
結構、最近はみたいと思っていたテレビを見逃すからなあ。ぱたっと寝てしまったりして。
このプロフェッショナルもそうだけど、この前も、『情熱大陸』で見城徹さんをやるから絶対に見ないと!と思ったのに見逃しました。
見たかったなあ〜〜〜
話は飛んでしまいましたが、荒井さんの続きです。
私が最も愛する作家のうちの一人、レイ・ブラッドベリの新作『さよなら僕の夏』の表紙は荒井さんが描いています。これは、『たんぽぽのお酒』の続編なんですねえ。
実は、この物語、ブラッドベリの作品の中で私が好きなものと、ちょっと違っているせいか、持っているけどまだ読破していないんです。でもきっと、いつか必要な時に一気に読んでしまうのだろうなあとは思っています。
それにしても、ブラッドベリ、もうとってもお歳を召しているのに、精力的に作品を発表していて、彼なら当たり前の事なのかもしれないけど、凄い事だなあと思う。
もう本当に大好きな作家です。
次に手にしたが、この絵本。
駒子さんの『よるくま』も大好きだけど、これも素晴らしかった・・
絵本を読んで、こんなにあたたかい気持ちになれるなんて。
絵本は、子供のころに触れた物語の感動した心をいつでも瑞々しく思い出させてくれる。
私は、小さい頃、本当に物語の世界を愛しまくっていた。
その好きな世界観が、この物語にはいっぱい詰まっている。
きっと、子供に読んであげるお母さんも、とても気持ちが良くなってしまうんじゃないだろうか。
色使いも、もの凄く素敵で、ずんと引き込まれて行きます。
はるちゃんに、このよるくまくんを会わせたいなあと思った。
そして、この二冊の絵本には、天使が入ってますよ。
帰ってきて、テレビをつけず、ラジオが聴きたくなってラジオをつけた。
そしたら、オノ・ヨーコさんの『イマジン・ピース・タワー』の除幕式の様子をやっていた。
この光の塔の建設をしたのは、アイスランド!
大好きなビョークの故郷だから、一度は行ってみたいと思っているアイスランド。
これで、ますます行ってみたくなっちゃった。
いつか、行けたらいいなあ。
この除幕式は、ジョンの誕生日に行われたそうで、ジョンの願いが叶ったんだなあと思うと、今でもジョンの魂は生きて活動しているんだなあと思った。
私がオノ・ヨーコさんに出会ったのは、高校の近くにあった大好きな市立図書館だった。
太い本・・・題名は『オノ・ヨーコ』だっただろうか・・・が最初の出会いだった。
確か、本を読んで泣いた気がする。深く深く感動した。
あの図書館では、本当に今でも心に残る本の出会いが沢山あったなあ。
そういう体験のお礼に、私の絵本を寄贈したけど、何だかいらない本を受け取るみたいな、荒い対応をされて、結局図書館には入れてくれなかったみたいだから、きっと古本に交じって、入口の古本(ご自由にどうぞ)のコーナーにでも置かれてしまったのだろう。
ほかの図書館では、そう言う冷たい対応はなかったから、かなり残念であった。なんというか、対応の悪さを見ていたら、まるでそこの人間関係がうまくいっていないのが目に見えて分かってしまった。
皆がいっぱいいっぱいという感じだった。対応してくれたのは、アルバイトみたいなおじいちゃんだったんだけど、オロオロして、奥に引っ込んだと思ったら、きっと奥で言われたままであろう台詞を機械みたいに繰り返して、さっさとお引き取りくださいという感じの内容を私に伝えるだけだったっけ。
オノ・ヨーコさんは、この光の塔を別に、ジョンの誕生日だからって作ろうと思っていたわけじゃないと言う。
始まりは、40年前で、コンセプチュアルなものでしかなかったのに、ジョンがそれを作りたいと思った事で、二人は出会ったと言う。そんなエピソードは初めて聞く気がして、それをヨーコさんの言葉で聞けた事は本当に嬉しかった。
『不思議でしょ!』と、インタビューで光の塔がこうして形になるまでの長い道のりを語るヨーコさんの言葉は、とても嬉しそうでキラキラしているのが伝わってきた。
そして、リンゴやそのほかの人に見守られ、除幕式で光の塔が披露された時の様子を聞いていたら、ラジオだから見えないのに、見えるようだった。
そして、見ているわけでもないのに、涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
想像しただけで、それが素晴らしいものだって言うのが分かる。
アイスランドの大地に、空に向かって何処までも光って行くその様子・・・
是非、この目でも見たいものです。
こんなに素晴らしい塔ができたのは、本当に奇跡みたいだなって思った。
本当に、聞き慣れてしまったLove&Peaceだけど、本当にそれが一番大切だと心から思います。
愛こそ全て。
愛があれば、世界は大丈夫だと思う。ずっとずっと小さいころからそう思っていた。
だけど、それを忘れると、Peaceが壊れてしまうのだろう。
ジョンとヨーコというひとつの愛の形から、宇宙全体の愛へと広がって行ったのはごく自然だったのだろうと思う。それは、彼らがとても純粋だからで来た事だろうと思う。
全体の幸せ無くして、個人の本当の幸せなどあり得ないから。
前に、私の心からの苦しかった事も含めた愛についての話を、心を開いて話した人に、「人の不幸は蜜の味」と言われた事がある。彼女が心から聞いてくれていると思ったら、そういう気持ちで聞いていたんだと思って、ビックリした事があった。その後に、多分私はもう知りたくもないけど色々と掻き回された一連の出来事は、きっと深い誤解と言う溝を作ってしまっただろう。その後に、私が経験した絶望的な体験は語る事はないだろうけど。そういう心ない人が間に入って、大切なものを歪めてしまって行くという事が、きっとこの世界には多いのではないだろうか。
それが、個人のレベルで起きても悲劇だけど、それは起こる場所によっては、大きな戦争にだってなりかねないのだろうから。
とは言え、例え、もう会わないにしても、心の中では永遠に大切である人との間に、きっともうこういうルートを辿ってしまった以上、何を言っても無駄だろう修復できない大きな溝が出来てしまったとしても、もう全ての事を私は許している。
相手が例え私という人間を誤解していたとしても、愛とは与え続けるものだから。
こちらが、純粋にその人を含め、世界中の人に愛を送り続けて行こうと思う。
どんなに辛い経験も、そこに学びがあって、その辛い経験こそ、大きなプレゼントなんだと思う。
そう受け取る事で、辛い経験、許せないと思えるような怒りや哀しみなどの負の力が勝ってしまいそうな経験でも、喜びに変わる。
感謝できる。
全ては、必要だから起きている、その時の私に相応しい最高の経験なのだ。
きっと、そうやって愛と感謝の心を実践して行けば、きっとPEACEは夢の話じゃないと思う。
『イマジン』という歌は、ダライラマ法王をはじめ、仏教で言う思いやりの心、を含んでいるだろうと思う。
思いやりとは、想像力で、愛と感謝の気持ちが沸き起こる原動力になるものだ。
「むかつく!」とか言って、イライラした時、きっとそういう瞬間は社会に生きていたら沢山あるだろうけど、そんなとき、ちょっと想像してみたらいいと思う。
相手の事、自分に起こっている学びの事。そしたら、きっと、余計な憎しみを抱かずに生きて行けると思います。
私は何故か、希薄に思える人間関係の中でも、ふとした瞬間に心の深い部分のダークサイドを打ち明けられる事がある。それは、一瞬の出来事であったとしても、言葉で伝えられたからには、その人が相当にそれについてのフラストレーションにさいなまれているという事だろうと思う。
結局は、それを越えるのはその人自身の気づきにしかないし、その力はそれぞれの手の中にある。
だけど、それを聞いてしまった側としては、暫く考え観察する機会を与えられる事になる。だけど、それ以上の事は出来ないのだ。人が人を真に助ける事は出来ないと思っている。
自分を助けられるのは自分次第だからだ。
だけど、サポートする事は誰にでも出来る。そして、祈る事も。
だから、私は何も出来なくても、心から祈っている。
「あの人とあの人の間に、あたたかい光が流れ出しますように」と。
私は、決して「人の不幸は蜜の味」なんて思えない。人が不幸であれば私だって幸せとは言えないのだ。
それが、どんなに苦手な人であったって。
シンプルな事だ。
だけど、そのシンプルな事にどうしても手放しで感動できない人が多いのだろう。
自由に、心を解放したら、きっとシンプルな事程感動できると思う。
それは、とっても小さい気づきに感動できるという事なんだと思う。
そう言う事に気がついたら、世界は本当に奇跡に満ちあふれています。
そういうことは、きっと子供のころは知っていた瞬間が必ずあった筈だって思います。
そして、そういう感動が多ければ多い程、いつまでも若くキュートであれるのだろうと思います。
ヨーコさんも、ダライ・ラマ法王も、岡本太郎も、敏子さんも・・・ってあげていたたら沢山でてきちゃうけど、みんなキュートでキラキラ輝いて、光に満ちている。
それぞれが、自分の哲学や方法で、そうありたいですね。
簡単な事程、実はとても大切で、忘れられがちなのだ。
馬鹿にされるような事程、実はとても素晴しいのだ。
自分の深い部分で共鳴した事に、素直にYES!と言える勇気を持とう。
きっと、それはそのうち勇気を出さなくてもよくなる。
そうしたら、人生はぐっと広がり、近づいてきてくれる。
そして、なんて色彩豊かな美しい世界なののだろうか。
Aloha
love,
Ryoco
『水は答えを知っている』という本を読んでみたかったんだけど、水のフェアみたいなのをやっていた青山ABCでは、1冊目が売り切れていた。
なので、この『結晶物語』を買ってきました。
色々と哲学して、でも結局最終的に何が大切なのかというと、思いやりや、愛や、感謝・・・喜びを持って生きることだということは、ダライ・ラマ法王などの本、その他の偉大なる本を読んでもそうなんだけど(岡本太郎さんだって、よく読み解けば、そういう事を言っている)、この本は、そう言う事を、哲学しないひとでも、はっととても自然な形で気づかせてくれる実験が載っていました。
私も、この著者同様、言霊の力を信じていますが、まさか、水がそれにこんなに反応しているとは思いませんでした。
詳しくは、写真も載っているし、江本さんの本を是非読んでほしいなあと思いますが、私たち人間の身体の70%が水分である事もそうですが、私たちは水から生まれたのかも・・・と、思ってしまう程です。
水に、汚い言葉や矯正の言葉などを見せる(言葉そのものの力を実験するために、紙に文字を打って水に見せています)と、水は結晶を作らないどころか、怖い感じになったりするのだけど、いい言葉をかけると、とても綺麗に結晶する。
ということは、70%は水で出来ている私たちだって、同じように言葉が影響しているという事だろうと思う。
植物だって、然り。
私は、植物にはよく「かわいいね」とか、「おはよう!」とか話しかけているんだけど、そういうことって大切なんだなあと思った。
そして、驚いたのが、私がちょうど電磁波について悩んでいたら、その解決の糸口が載っていた事だった。
水は、電磁波にさらされると、汚い言葉同様、怖い感じになってしまう。
だけど、「愛・感謝」という言葉を見せた水は、電磁波にさらしても、形を変えなかったそうです。
色々な言葉の中でも、「愛・感謝」という二本立て(?)は、最強の結晶を作るらしい。
愛と感謝の気持ちをしっかりと持って、この今という時を生きていたら、自然と喜びに満ちてくると思うし、電磁波やあらゆる障害を乗り越えられるのじゃないかなあと、もの凄く分かりやすい形で再確認できて、嬉しかった。
うれしくなりませんか?
自分の身体の中で、綺麗に結晶していると想像するだけで。
ミネラルウォーターのペットボトルにも、そういう言葉を書いておくといいみたい。
私は、ALOHAという大好きな言葉や、愛とか色々書いて、お水を飲む時は、「ALOHA!」って挨拶してから飲んでいます。
何だか、素敵な健康法だなあと思いました。
魔法みたいですね。
雲を掴むような話かもしれませんが、実験が証明しているように、事実である事は確かで、綺麗に結晶した水を飲む事は、健康に有効だと思うし、落ち込んでいる人を元気づけたいと思う時、さり気なく優しい言葉をかけることは、最初届かなくても、決して無駄ではなくて、しょっちゅう繰り返していても、もっといえば、遠くから水を通して毎日のように祈っていても、絶対に届いて行くのだと思います。
大切なのは、心からの気持ちですね。
あと、読んでいて思ったのが、沖縄の人が「〜〜しようね〜」って言うでしょ?あれって、もの凄くいい言い方なんだなあって思った。
「〜〜してね」とか、優しく言っても、強制の意味が言葉にあるものよりは、「〜しようね」と言った方が、人間の心にもすっと届くのかもしれないなあと思った。
ALOHAという言葉には、挨拶のほかにも、愛とかそういった素敵な心が含まれています。今度、江本さんにハワイ語で実験した事ありますか?って質問してみたいなあと思っています。
どんな結晶になるのか楽しみ・・・見てみたい!
というわけで、今日もALOHAの心を胸に、一日を過ごしたいと思います。
寂しい時は、思い浮かんだ友人なり、親なり、兄弟なり、知り合いなりと話す事、それってとっても大切だなあって思います。
私も、素直に周りの愛する人たちに頼る時は頼りたいし、みんなもそうしたらしいなあと思います。
Aloha!
Have a nice day!!
Ryoco
参考:
江本勝さんの日記を読んでも少し内容が分かるかもしれません。
江本さんのお人柄が見えるような、質問形式の日記です。
旅行に行く前に、岡本太郎に会いに行こう。
と思っていて、まだ蝉がみんみん鳴いている生田緑地を抜け、
岡本太郎美術館へ行ってきた。
今やっている常設展もとても素晴らしかった。
印刷では絶対に表現出来ない色がそこにあって、
その色に私は吸い込まれそうになりながら絵の前に立ち尽くす。
『樹人』という題名の絵のピンクがとても印象的だった。
『哄笑』の前では、涙が出そうだった。
絵から発せられる、線と色のパワーが魂の奥までびしびしと伝わってきた。
前にも観たけど、岡本太郎の映像をじっくりと観た。
やはり岡本太郎は、私の中に生きているなあと再確認。
付け加えるなら、
みんなの中にも、生きている。
それが、岡本太郎。
企画展も良かったけど、ゆっくり観る時間がなかった。
アマゾンの映像が素晴らしくって、ゆっくり観たかったなあ。
あの部屋にいるだけで、アマゾンの風を感じられそうだった。
そんなわけで、あっという間に、閉館時間になってしまった。
閉館時間ギリギリに、『対談集 岡本太郎 発言!』を購入。
そう言えば、あまり対談集を読んでいなかったので、とても面白い。
変わっている所では、ムツゴロウさんとの対話や、ユーミンとの対話が面白かった。
(ムツゴロウさんはやっぱり超越してる素晴らしさで、ついついにやりと笑ってしまった)
帰宅途中、
母から電話が。
花屋さんにいたのに、話の内容は濃くなるばかりで終わらなくなる。
そのまま、電池が切れるまで、寄ろうと思っていたスーパーの近くで長話。
腕と耳の骨が痛くなった。(笑)
私たち家族に共通してある性格の
長所でもあり欠点でもある部分について話し合う。
とても深い話だった。
それぞれがそれぞれの日常の中で出会う個々のダイナミズムの中で、
普遍を感じた。
いい気持ちになる出会い、悪い気持ちになる出会い、
どんな状況下でも、人と出会って行くからこそ、
成長できる。
この宇宙に比べたら、歴史も浅く、小さな人間である、私たち。
本当に、人の悪口をとやかく言ったり、決めつけたりしている場合じゃない。
そんな醜い人間であるのは、哀しすぎると思うのです。
つまらない。
もっともっと、耳をすまし、耳を傾け、
その中にある、
本当に美しいものを目撃する方が、魂は輝く。
おもしろい。
それに、
人の事をあれこれ言っている時間は本当はない筈だ。
もっと個人の中にある深い闇をも見つめ、
全体を見つめた時に、
この世界には、
もっともっと、緊急に考えなければいけない事が沢山ある。
今の世の中、
足りない事のひとつに、
“聞く”ということがあるように思う。
素通りさせて聞くのではなく、しっかりと対峙して人の話を聞く事。
それは、おもいやりや愛に繋がるのではないでしょうか。
多くの犯罪は、この聞いてもらう機会がなかったために起きたのじゃないかなあと思うのです。
聞ける環境
話せる環境
真剣にぶつかりあえる環境
それらを今の日常に、
意識的に作って行くだけで
ぐっと状況は良くなって行くのじゃないだろうか
吉本隆明さんが、『真贋』のなかで、書くことで、解放され、
読者に同じ開放感を与えられたらいいなと思って作品を書く人というのは、
子どものときあまり幸福でなかった人が多いのではないでしょうか。
というようなことを書いてらした。
本当に幼い頃の、無意識な部分に受けた影響。
そんなものが私にもあったのだろうかと気になっていた。
私が何故こんなにも書きたいと思うのかが、ずっと気になっていた。
母は、私は本当にそう言う意味では、悩みはなかったと言っていた。
幸せに、無我夢中で子育てをしていたと言っていた。
ただ、母乳が上手く飲ませられなかった事が唯一の哀しみだったと。
私は、姪のはっちゃんを見ていて、
あかちゃんには、繊細な感受性があることが見えたような気がしている。
そして、その度合いは個々で違う思った。
私は、もしかしたらそういう気持ちの変化に敏感な赤ん坊だったのかもしれない。
でも、私が色々な事を考えながら成長できたのは、
様々な世間とのズレや距離を感じ、葛藤したとき、
いつも母が、本気で一緒に議論を繰り広げてくれたからだろうと、
今までそれが当たり前のように在ったから、
うっかり見過ごしていたとても大きな事だったなあと気がつい。
そのやり取りの中で、私は多くを学んできたのだなあと、
改めて実感した。
私のは母は、
ちょっと眺めただけでは感じる事の出来ない
大きなパワーを持っている。
本人すら気がついていない。
普通の人のような欲が、若い頃の私にはイライラするくらいなく、
惜しみなく、与え続けている人生のように思う。
田舎の、工場でよなよな働きつづける母。
そこで次々出会う人たちは、見事に根強い問題を抱えている人が多く、
私なら逃げ出したくなるのにと、何度も不思議に思った。
母は、工場に勤めていたのではなくて、
もう本当の意味でドロドロの俗世に入って、
その場所で与え続けていたのだなあという事に最近気がついた。
そして、母自身も、かけがえのない修行をさせてもらっていた。
それは、本当に凄い事だと思うのだ。
絶対に、私ならそこで働いたならば、不満ばかり漏らし、
数日しか持たないだろうに、
母は、仕事が嫌だとか思った事はない筈だ。
主婦もやりながらだから、寝る暇もあまりないのに、
何故続いてきたのかは、本当に凄いとしか言いようがない。
つえ〜〜!と、本気で思った。
私の経験した様々な困難や喜びの経験と、
様々な分野の本や、言葉、芸術に寄って培ってきたものを
総動員しても、母の大きさにはまだまだ及ばない部分が沢山ある。
でも、議論を交わせる人がいると言うのは、本当に幸せな事だと感謝している。
本当は、こういう議論は、
様々な人とするべきだと思うなあと思う。
くだらない事だっていい。
日々の、ちょっとした疑問や葛藤を感じて考え、
それを聞いてもらったり
聞くこと
そして、思っているものをぶつけあうこと
そう言うこと。
学生の頃はそんなのよくあった事だろう。
疑問がいっぱい生まれて、爆発させるのが自然だったから。
大人になる事は、
そういうことがしづらくなる事であるのは哀しい。
大人こそ、
「こんな事今更言ったら馬鹿にされるかな」
なんて、変な計算などしないで、
率直な意見を交換させて行くべきなのだ。
本当に、それが凄く足りない世の中だと思う。
文明の発展ばかりに夢中になっている場合ではない。
本当にそう思う。
コンピューターや便利な機械の支配下になってから、
それに甘んじてきている世界は、何もかも退化させて行っている。
新しい文明に、人間がボロボロになってしまう前に
危機に気がついて行かなければ。
便利なものが中心になって光を浴びているけど、
そもそもそんなところに疑問を持って、
対峙して行かなければ、人間は滅びる。
疑問を持つこと
考えること
それを続けていこう
無常だから、
いつかは、全てが滅びるのは避けられないけれど、
その滅びる時に
淀んだ暗黒の星にならないよう
太陽さえも凌駕する星になれるよう
そんな遠い未来には、
私たちはいないからと、
無責任に生きて行く事は、
今この瞬間にすら、生きていない事だ。
追記:
ブログの題名を、以前のような形に戻しました。
真夜中に目が覚めて
ふと窓の外を見てみたら
星がひとつ
きらきらと瞬いていた
ベランダに出て
そらを見上げると
東のそらに
オリオン座が
もっとそらを見上げてみたら
たくさんの星が
瞬いていた
静かな夜
東京にも
こんなにきれいな星空が
あったのだなあ
追記:
今日は、素敵な本棚を見つけた。
そこで買った吉本隆明さんの本が素晴らしくよくて
最初のページからとっても感動している。
実は、吉本さんの他の著書を、昔に買って
持っているのだけど、何度も挫折していた。
でも、無性に読みたくなったら
この本に出会ったのだけど、
やっぱり読む時期ってあるのかもなあと思ったり。
とにかく、そこの本棚が素晴らしくて
自分の部屋にしたいくらいだった。
追記:
やまごんと、美味しい宴。
りごぼうのサラダや、色んな鶏肉串の食べ比べ、皮あげに、鴨肉のつみれスープ、地鶏のチャーハン・・・
とっても美味しかった。
最期に食べたプリンが、ここ最近食べたプリンの中でもぴかいちの美味しさだった。
何話したんだっけ〜っていうくらい、今夜もよく喋った。
美味しいごはんに愛する女友達って、かけがえのない組み合せ。
昨年の終わり頃から、私が出会い、手にする本たちは、生と死への強い探究心と、創造しようとする者としての苦しみ、また、それに伴う社会的な営みに関す
る苦しみからというのももちろん内包しているけれど、自分の中に渦巻いているものを言葉として表現している、またはそれについて様々な考察をしている人と
出会いたかったという事が大きかったと思う。ダライ・ラマ、岡本太郎に関連する本は、色々読んだ。
私は、学生の頃は読む本の大半が小説、またはそれに関する本だったというのは以前ここに書いたと思うのですが、今ももちろん小説は読んでいるのですが、圧倒的に哲学的なものが多くなっている気がしています。
どうやら、眠っていた脳のある部分が、思い出したように活動しているようです。
そして、数ヶ月前に一気に出現してしまった前髪の白い毛も、この際、そのせいにしようと思ったりし始めています。
私は、毎朝、私の愛する人たちをはじめ、世界中の人々の心に喜びがありますようにと、祈っているし、自分自身も、喜びを抱き一日を過ごそうと心掛けている。
だけど、人間というのは、もし幸せしか目の前に用意されていなかったら、なかなか真に学ぶ事を求めないのではないかなあと思う。
もっと言うと、人との違いについて、深く傷つき、深く感じ考えた経験こそが、人生に彩りと深みを与えてくれるのだと思う。そして、それが喜びに繋がっていくのだと思っている。
違いについて、深く考えた事のない人は、それについて深く傷ついた事がない幸せな人と言えるのだろうか?それは、多いに疑問だと思っているし、私は、幼い頃からそれについて考え、感じ、闘ってきている気がする。
自分の事は見事に棚に上げ、他人の欠点や(私からみると全く欠点と見えない場合が多いけど)、障害らしきもの、容姿、行動、様々な事に関しての、世間的
な違いをあげて、馬鹿にする人がいる。この場合、世間というのは、自分と重ねているのだろうけど、その全てが何とも滑稽に見える。(もちろん、そこに愛情
のあるユーモアが介在している場合は、また別の話だけれど。)
当然と言わんばかりに、同意を求められても、困っちゃう。
滑稽に見えるどころか、あまりにひどいと、怒りすら感じてしまう時があるのは、私の人間としての力量のなさだけれど、そこへの情熱が私を突き動かしてきているとも言える。
私に関して言えば、幼い頃から、世間とのズレを感じて生きてきた。特に、個性を伸ばす教育というよりは、“みんなと同じ”を暗黙の教育にしている日本
は、窮屈すぎたし孤独を感じた。私の思考は、何でこんなに早いのだろうと、誰に答えを求めていいか分からず苦しんでるなんて、理解してくれている母ですら
その大きさは感じ取れなかった事だろうと思う。そして、私は、今の子供たちの中には私のような子供もいるだろうと思っている。
きっと、子供らしい子供ではなかったのでしょう。大人ですら、発想が子供じみていると感じることが多く、それは深く絶望する共に、その事が私を本の世界へ誘った。
記憶に残るひどい大人は小学生の頃の先生だった。人間としてどう考えてもおかしかった。都内から、とある県に引っ越してきた私は、何故か特別扱いされ、
確かに少しは勉強が得意だったというのはあったかもしれないが、音楽の授業でフリーハンドで5線をひくのですら、大げさに褒めちぎり、黒板にお手本を何度
でも書かせた。体育の授業では、鉄棒登りが素晴らしいと褒めちぎり、皆の前で何度も鉄棒に登らせた。お陰で、脛が赤く晴れ上がってしまったのだった。
そう言いつつも、評価がいい加減だったのは、次のお話で明らかになる。冬休みに凧に絵を描いてくるという宿題があったとき、私は父の好きだったタンチョ
ウ鶴を描いた。今は絵などあまり描かないし、苦手意識すらあるけれど、その絵はもの凄く夢中になって描いたし、自分でいうのも何だけど、上手くかけてい
た。
先生は、いい絵には金、銀と賞をつけて行ったのだけれど、どう見ても上手とは言えない絵を選んでいた。だけど、それについて私は全く気にかけていなかったのだけれど、ある休み時間、クラスメートが先生に無邪気に質問をしているのが聞こえてきた。
「先生、この絵すごくきれいなのに、何で賞に選ばなかったの?」と、私の凧を指していた。先生がどう評価したのか聞いてみたかったので、そのままそっと
そば耳をたてていたら、「これは、大人に描いてもらったに決まっているじゃない〜。そんな絵は問題外よ〜」と来たものだから、その時の私のショックは想像
出来るでしょう。
確か、その後、たまらなく反論したような気がする。しかし、先生は決めつけてしまっていて、聞く耳が何処にも生えてなかった。
子供の能力を、ある一定のものと決めつけていて、子供はこうでなくてはという概念から逃れられない先生。あんなに長い間子供と接していて、違いの素晴らしさについて考える瞬間がない先生は、不幸だと思う。
その先生は、その後、もっと私を唖然とさせた。子供たちから貧乏と思われていたし、ちょっと仲間はずれにされている生徒がいたのだけど、その生徒に服な
どの施しをした事をわざわざ黒板の前に立たせて私たちに聞かせたのだ。先生は、弱い人にはこうやって手を差し伸べましょうと言いたかったのだろうし、まわ
りの子供たちは、ちょっと感動すらしているようだった。
しかし、私は先生の想像力のなさに、本気で目の前で起きている出来事を疑ったし、暗く重い気持ちで絶望するしかなかった。
実際に、この事は、施しと辱めを受けた本人と私くらいしか覚えていない思い出だろうと思う。幸い、その子は、とてもキラキラした明るい性格の持ち主で、
子供にありがちな、ふっと風向きが変わっていじめられなくなってからは、いじめていた子供たちに何の恨みも抱かずに、無邪気に遊んでいた。
小さい頃から、そういった差別的な態度に敏感で、強い憤りを感じたり、人との違いについて大いにやりづらいと思ってきた。人の目を気にしなくていいのだけど、そうさせてしまうような空気が日本の学校にはあると思う。
だから、早く大人になりたいと願っていた。それは、特に高校生までは変わらず強く思い続けていた気がする。
私は、今の先生とよばれる人たちをはじめ、親もそうだし、全ての大人が、まず、人との違いについて、何も批評しないことを願っている。子供たちは、大人をみて育っているのだから。
よっぽど敏感でない限り、その歪んた精神は、気づかれることのないまま、そのままそれは受け継がれて行く危険性があると思っている。現に、そのことに疑問を持たない大人が何と多いことか。
それは、なんてつまらないことだろうと、心の底から思うのだ。そして、勿体ないと思う。
人と違ってもいいのだということを、子供たちに伝えたいし、というか、いいんだなんて言う前に、違って当たり前なんじゃない?と言いたい。
傷ついている人には、違っていいんだと伝え、勘違いしている人には、あなただって障害者だのだよと伝えたい。
違いや障害あるから、私たちは生まれてきたのだと思うから。
そのことは、愛があれば必ず理解出来ると思っている。
だから、愛が一番大切だといいきっても私は何も後悔しない。
そして、愛は誰もが持っている筈のものだ。
身体的な病気だって、精神的な疾患だって、鬱病だって、他人と上手く話せなくたって、セクシャリティに問題があったって、容姿が悪くたって、貧乏だって・・・などなどのいわゆる世間的にマイナスと思われがちなその違いは、何も恥じるべき点はない。
反対に、上記のような世間的な欠点らしきものがなく、しあわせにみえるひとだって、それを鼻にかけてはいけない。
そんなの、鼻にかけていないと、みんな言うだろうと思う。
だけど、そう言いつつも、世間的にマイナスと思うようなことが不幸だと思っている人は、無意識のうちに、差別的な態度を取ってしまうのだ。哀しいことに。
それは、本当に恐ろしい事だと思う。
その無意識が、どれだけその対象にされる少数の人たちを影で傷つけているか。その間違った認識こそが、重度の障害であると気がつかない事は、既に当たり前になっている世の中だ。
これは、本当に、みんなが気がつき、変えて行かなければいけない事だと思う。
人の会話の多くが、批判だったりうわさ話だったりしないだろうか。
そんなことより、もっと語るべき面白い事が沢山あると思うし、それ以上に大切で難しい事は、他人の前でバカになれるかどうかという事なのだろうなあと思う。
その全ての点で、飛び抜けて素晴らしかったのが、岡本太郎なのだなあと思う。
どんなに難しい本を読んで、感動しても、岡本太郎の生き様を見ると、小さく見えてしまう事が多い。
きっと、彼は宇宙にとても近い人間(というかそのものかもしれない)だったと思うし、それと同時に、岡本太郎は、全人類と同じとも言えるのだなあって思えるところが、また凄い。
私は最近、書きたいのに書き出せないという苦しみを感じている。
頭では色々思い描くし、メモも随分しているが、書き出せないでいる。
別に作家として食べているわけじゃあるまいし、じゃあそんな事考えなければいいじゃんって思うでしょうが、それは私もそう思う。(笑)
だけど、書きたいと言うことは、ずっと思ってきている事で、それについて書けなくて苦しいなあと思う時期、時々、何故そんなに書く事について考え続けるのかしら?と悩んでしまう時もある。
そんなある日、茂木健一郎さんのクオリア日記と出会って、さらに、ここ最近はその魅力に取り付かれたように、過去のものまで読み込んでいる。音声ファイルなども、90分あるものがあったりするから、面白くて仕方ない。
その体験から、まさか、今の私の書く事の悩みについて答えを求めようとは少しも思っていなかったのに、不思議なもので、意識は常に繋がっているんだなあと思わずにはいられない本に出会った。
茂木さんの日記もまだ全部読み終えていないけれど、もっともっと彼の本を読みたいという、いつもの夢中になるととことんの性格で、本屋さんにいった。
脳に関する本が並んでいる棚をこんなにまじまじと眺めた事なかったなあと思いつつ、わくわくしながらも茂木さんの著書を探していた。
そんなとき、出会ったのが、この本だった。
これは、茂木さんが解説をしているのだけど、まさに少なからず私も悩んでいる事を、本当に面白い経路を辿り、冷静に、かつ愛と情熱を持って書き進めてある本だった。
茂木さんの日記を読む前から、脳については色々と関心があった。だから、茂木さんに辿り着いたのかもしれないけど、そのあたりはもう忘れてしまった。(笑)
普段はあまりつけないTVをつけた時にやっている番組も、脳に障害を持っている人や、小児がんと闘う子供、深い孤独と闘ってきている人、など、明らかに
目に見える障害がみえる人について考えさせられる事が本当に多くて、これは偶然じゃないのだろうなあと感じているのだけど、その中でやっぱり違いについて
苦しむ人たちについて深く考えさせられる事が多く、それを考えていくと、心や愛のこと、芸術の事、それらを考えていたら、哲学や宗教的や感覚の部分だけで
なくて、科学的な角度からも見てみたいと言う思いから、脳の事も考えるようになった。
それは、本当に思いつきでしかなかったけど、凄く素敵な出会いだったと思う。
茂木さんのお話は、本当に面白いし、考えさせられるし、感動するし、日々共鳴している。
そして、この『書きたがる脳』は本当に、私にとっては助けになる、出会いの本になるだろうと思う。
まだ、読んでいる途中だけど、そのなかに、
すべての精神的な仕事は傷んだ身体でなされる
と書いてあったのが印象的だった。(彼女の表現の素晴らしさで印象深いところは沢山あるのだけど、それはひとまずここでは書きません。)
ここで、この本について私なんかが簡単に色々語れないと思いつつ、共感出来たからそれをちょっとお話しすると、身体的な障害が、書く事に繋がるという事はとても理解出来る事だなあと思ったから。私自身が感じた身体的な苦しみから。
とは言え、この本を読んでいると、私の苦しみなんてまだまだ甘いと思ってしまう多くが見えてくる。
そう言えば、岡本太郎さんも、晩年はパーキンソン病にかかってしまった。しかし、全身全霊をかけて、一瞬一瞬を静かに爆発させていったその素晴らしい歓喜の代償が病気だったとしたら、それは不幸ではないと思う。
私は、自分の身体についてそんなに鈍感じゃないと思っているので、脳か神経系の何かが傷を負っていることは、最近の調子からも何となく感じている。
だけど、それは全て因果からきているのだなあと思っているから、受け入れないとって思っている。そして、その傷の中に書くということの意味みたいなものも含まれていると感じている。
そういう事を、この本は勇気づけてくれるだろうと思っていて、その点でも本当に希で素晴らしい本だと思っています。
闇を見つめる事が出来るから、
光が見える。
傷を負うから、
大切な事が見える。
人と違う性質について、偏見を抱かれたからこそ、
本当の喜びが見える。
何度でも言う。
その障害(世間一般的なマイナス要素)を、恥じてはいけない。
本当の意味の自由は、それに気がつかない遠く、
気がつけば、いつだってあなたの手のひらにある。
そのことは、これからも、何度でも言い続けよう。
今日の最後に。
これも、先日TVをつけたらちょうど始まった、サヴァン症候群のキム・ピークさん(映画『レインマン』のモデルとなった人)が講演で毎回言っているという言葉を。
これは、まさに私がずっと感じてきている事だったので、とても感動し、共鳴した。
人と違うことは悪いことじゃない
人はみんな違うものなんだ
—キム・ピーク—
ひとまず、まだ物語は始まっていないけど、
どんなに精神的、身体的に苦しくても
私は、自分との闘いに屈する気は
まだないようだ
そんな自分を受け入れよう
そして、苦しみと喜び、
物事の対極を見続けよう
その、ありのままで、
きらきらしている美しい宇宙を
見失わず、書き続けたい
うまれたての
あかちゃんをみよ
愛を込めて、
love & humour,
aloha,
Ryoco
ようやく、リリーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読み終えた。
ああ、苦しかったなあ。
私は、色々経験して行くにつれ、物語を読むのが苦手になってきている。もちろん、それでも小説は読んだりしているけど、かなりのっているときじゃないと読めない。
それが、自伝とかそういう類いの本だと尚更である。
逆に、実用書とかエッセイとか、紀行とか哲学書とかそう言った類いの本はどんなに分厚くても読み進めやすい。この前の、中平卓馬さんの本なんて、分厚いし字もとても小さいのに、凄く集中して読んだら半分読むのもあっという間な気がした。
今年の始めは、かなりの勢いでチベット仏教やダライ・ラマ法王に関する書籍を読んだし、岡本太朗さんの本もそうだ。
小説は、時に強烈に人生の助けになる。
私が強烈に支えられていた時期は、高校生〜大学生の頃だったと思う。
そこに、語らいがあるから、溢れる感情のぶつかり合いがあるから、読むのかも知れない。本当に、物語は友達だと思えた。
世間から孤立して孤独に思えた時、同じ感性に出会えると、感動して励みになった。
でも、いつしか、自分の経験が、どんな小説をも越えてしまったと感じた訳じゃないけど、読めなくなったって言う事は、そういう風に感じたからかも知れない。
小説の必要性すらないような気がして仕方が無かった。
あんなに本が大好きだったのに。私の心は壊れてしまったのだと思った。
実家には、そんな時期に手にした読みかけの自伝や伝記や小説が沢山ある。
それでも、私は“ものがたり”が好きだ。
その形は何だっていい。詩でも、小説でも、絵本でも、絵でも、映画でも、音楽でも、舞台でも、何でも。ただ、その中で、私が表現方法として選ぶならば、やはり言葉なのかなあと思う。
絵が描けたら、音楽ができたら、とか思うけど、やっぱり物心ついたときから自分の表現方法として言葉を選んで来た気がします。
正直なところ、何故、物語なんだろう?って思い、苦しいなあって感じた事もある。
意味なんて、無いのかも知れない。
ただ、私には物語が必要だって思っていて、それは同時に、世界中の人々にも必要なんだって思っていて、その重要性とか意味とか目的とかそんなのは分からないけど、とても大好きなんだ、っていう、それだけが確かな気持ちとして、ずっとずっとある。
それだけは、私の中心を通っている一本の信念として持ち続けて行こうと思う。
日々の、様々な制約の中で、純粋に生きようとすると、何度も壁にぶつかる。何度も、絶望に突き落とされる。
だけど、そういう制約があるからこそ、自由に生きる喜びを感じる事が出来るのじゃないかなあと思う。その間には、流されそうになったり、自分が歪みそう
になったり、迷ったり、色々あるけれど、ひとつづつそれらを越えて、自由に力強くにっこり笑う事が、生きる醍醐味じゃないだろうかって思う。
リリーさんのオカンのように、母親が子供に与える無償の愛。それは、生まれてきた人、誰しも受けて来た物だろうって思う。愛が無かったら、今こうして生きていない。誰かの無償の愛があったから、こうして生きているのだ。
それを、私たちは、大人になってからも忘れずに、心の奥に感じ続けていたいですね。
人は、お金より愛だ。愛が無いと、生きて行けない。人は、死ぬのを怖れるけれど、普段は、死をとても遠い事のように感じている。愛が無いと死んだも同然なのに、本気でないがしろにしている人がなんて多い世の中だろうと思う。
そういう病気は、いとも簡単に蔓延して、いつの間にか病気だって言う事に気がつかず、それがスタンダーとになていたりする。不思議だ。それなのに、感動的なお涙ちょうだいな物語を欲しがる。不思議だ。
物語は、涙を流させるとか、涙を流したいとか、そういった卑しい目的で対する物じゃない。何かが狂っている世の中だ。北野武さんが、「ここんとこ病気み
たいに、感動します、泣けますって、そういうバカみたいな映画ばっかり。そういう時代になっちゃった」って言っていたけど、まさにそうだなって思った。
涙って言うのは、結果として付随して来ちゃうもので、それが目的じゃない筈なのに、泣く事が目的になっている時点で、興醒めだなって思う。作品はどうあれ、PRの仕方に問題があるって言うのもあるけれど。
愛が無いと、心が荒みます。
間違った解釈が、連鎖していく。その一体感は、それはそれは気持ちの悪い物だって思う。
本当は純粋で、無垢な物が気持ち悪いと言われ(例えば、マザコンっていう言葉とか)、本当はとても気持ち悪いのにみんなして全く気がつかない気持ちの悪い善意とか、スタンダート。
そういったものを嗅ぎ分けられる人が減少しているのは、死に対峙して生きていないからだと思うし、愛や愛に置き換えられる何かが不足し過ぎているからだろうって思う。
エコとか、ロハスとか、スピリチュアルとか、例えばそういったいいものが歪められた意識で捉えられるって言うのも、一度それを自分の中で疑ってみることをしないからだろうって思う。
ダライ・ラマ法王は、仏教哲学も、鵜呑みにするのじゃなくて、まずは疑う事から始まるとおっしゃっているくらいだ。でも、それはとても正しいと思う。そうやって、ひとつづつ理解して行く事がその人の財産になるのだと思います。
ただ、流行に載って、全てをノリで取り繕っているのでは、時間が勿体ないって思います。
私たちが、何故生きているかなんて、その真の目的は誰も明確には答えられない。
だけど、感動するために生まれてきたって言うのは、色々な要素を集約していて、一番そうだろうなって思えます。
だからこそ、私は、物語を必要としているって思うのかもしれない。
そこに、分厚い壁とか苦しみがあったとしても、物語には人を色づかせる力があるって言う事を、身を以て知っているから。
「物語」は、「芸術」とか「音楽」などと同じように、「愛」と置き換えても、感覚的には何のズレも、ない。
私だけでなくみんなが、死ぬことも、生きることと同じくらい近くに感じて、今を大切に生きて行けますように。
孤独感に酔うのではなく、誰しも持つ本来の孤独に目をそらさずに生きていけますように。
愛を込めて。
Ryoco
今日の空:
いいお天気でしたね〜
Mieが、お散歩にいこうよ〜って言うから、凝り固まって辛くなっていた身体を休めようかと思っていたけど、やっぱりこのお天気の良さに身体がうずいてしまったので、一時間半くらいお喋りとお散歩を楽しんできました。
気持ちのいい空と風。5月だというのを忘れそうなくらいだった
観ているしょっぱなから、怖いシーンがあって、タイトルに『ソンビ』って入っているの全然気がつかなかった・・・って少し後悔しちゃったけど(私は本当 にホラーは苦手です)、ホラーシーンはひとまずいただけなかったにしても、はげとアフロのからみとか心の通いあいはとっても面白かった。
浅野忠信も哀川翔も大好きな俳優だけど、ふたりとも本当によかった。
本当は、『ゆれる』が借りたかったんだけど、何となく今はこういう勢いのあるすっきりするような(しないかしら?笑)映画がいいみたいです。
そうはい言いつつ、ついに望んでもいないのに手元に巡って来てしまった『東京タワー』を読み始めた。
こういう、半強制的なきっかけでもないと読まないな〜って思っていたけど、やっぱり手元にやってきてしまった。何故かいつかはこんな日が来るんじゃないかなって予感だけはあったのだけれど。
映画は、絶対に観に行こうって思っていたんだけど、小説、読み始めたら面白いです。リリーさんの幼少期の話を読みながら、凄く鮮明に自分の幼い頃の気持ちとか経験を思い出すことができちゃって、頭の中が忙しい!って感じになっちゃった。
この本は読んでいなかったけど、リリーさんは直感的に好きだなってずっと思っていた人でした。
意外とね、何でもないシーンにぐっと来たりしています。
この本を読んで泣かなかったっていう人はいないらしいですね。ということは、私は絶対泣くのじゃないかな?と思っているのだけど、先の事は分からないなあ。
割と最近、近所にできたカフェ、mieは結構行きつけになっているみたいだけど、私はそんなにしょっちゅうは行っていない。
でも、行ってみたら少しずつパワーアップしていて素敵になっていた。
このケーキも最高に美味しかったわ。
ガトーショコラって、結構素朴すぎてものたりなかったりすのがあったりするけれど、これはリッチにショコラを感じる事ができてnice!でした。
オリジナルの紅茶があるらしく、ちょっといいかも。パッケージとかも変わっていて面白い。(wakasu)
岡本太郎さんに出会って、私は本当に救われたって思うし、まだまだこうしている今も、救われている気がしている。
岡本敏子さんは、よしもとばななさんとの本『恋愛について話しました』で、5分に一回は太郎さんの素晴らしさを語っていたって言うけれど、それって本当によくわかる。本当に素敵な人だから、伝えられずにはいられないんだ。
全人類として生きた太郎さんだったからね。敏子さんは心にしまうのでなく、みんなに知ってもらいたかったのね。
そしてそれは、とっても役に立っている。
本当に、そう思う。
私は、本当にこれはと思う言葉や人に出会うと、とことん集中する。そういう性質のようです。
星野道夫さんもそうだし、山田詠美さんもそうだし、宇野千代さんだったり・・・他にも色々いるんだけれど、そして今は本当に岡本太郎なのだ。
タロさんは、「岡本太郎は君の心の中にいる」って言っていたけど、それは本当にそうだと思う。気がつけば、みんなの心の中に岡本太郎はいるんだと思う。
太郎さんが「芸術」と言う場合、それは絵や音楽や文学とか言ったものを差すんじゃない。もっと深い。タロさんの言う「芸術」という言葉は、「愛」と置き
換えてもいいと思う。敏子さんは、ただ太郎さんにとっては、「芸術」というのが一番しっくり来たんだろうとおっしゃっていた。
私も、既存の言葉に、本来言葉にない意味を含めて言ったり書いたりするので、ズレや誤解が生じるかもって思う事はしょっちゅうある。実際に、上手く伝わっていない場合も多い。誤解も多い。
私が、例えば「愛」といったり「優しさ」というときは、その一般的な意味とはちょっと違う場合がよくある。それは、感覚で感じ取ってくれる人はいいんだけれど、そんなの親にだって通じない場合だって多いのにね。それに関して、太郎さんは上手い事を言っていた。
「言葉はすべて自分以前に作られたものだし、純粋でほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあうはずがない」ってね。これには、ほんとうに同感だった。そんな風に言えちゃうところが本当に凄い。
ああ。また太郎さんの話になっちゃった。笑
でも、女性だったらやっぱり太郎さん研究をこんなに熱心にしたり感動するんじゃなくって、敏子さんのことをしっかり見つめないとなあって思う。敏子さんは本当に女性として生きた人だから。
敏子さんも大好きだけど、太郎さんにすっかり夢中になっている辺り、私は男なのかなとか思っちゃう。
敏子さんの『恋愛芸術家』っていう本を読んだのですが、本当に本当に素敵だった。そして、痛かった。そして、痛い分、本当に力が沸いて来た。
敏子さんにはもともと備わっていなくっ
て、何故そう思うのかが本気でわからないわとおっしゃっていた、傷ついたり嫉妬したりする側面を持っている私。そして少々潔癖な面。誰でも少しは経験があると思うけど、そういう側面があるか
ら、私は表現者でいられずにはいられないのかもしれないけど、自分でやだなあって思う一面だった。
敏子さんは、本当に凄い。本当にただ在る人なのだ。ただ、この瞬間を精一杯開いて生きている、そんな人なのだ。それ以外に何もない。だから不安になったり過去や未来の事を考える暇なんてないんだ。だけど、それこそが人間にとても大切な事で素晴らしいって思う。
私は、とても恥ずかしいなあって思った。でも、そういう自分が自分なんだから素直に認めちゃったらいいんだってこと、思いつかなかった。
駄目な自分をこてんぱんにやっつけるんじゃなくって、駄目な自分をじっと見つめて、眼をそらさなければいいんだ。そうして、誰に認められなくても自分が
自分を抱きしめられればそれだけでも素晴らしい。そこから、開いて行けるんだって言う事を、敏子さんから教わった。太郎さんでもあるけれど。笑
さて。コーエン兄弟の映画を観て、なんでこんなにタロさんの話をしているかと言うと。
岡本太郎哲学には、「現在にないものは永久にない」っていうのがあ
るのだけど、それは、逆に言えば「将来あるものならば、必ず現在にある」と言うことで、これは本当に痛いわ!っていてもたってもいられなくなっちゃったけ
ど、それと同時に「なにくそ!」っていう気持ちもわいて来るとても凄い哲学だわって思う。本当に太郎さんの言葉って凄い力があるなって思うけど、そういういい言葉に接して血や肉にし
ていくと、そこら中に出会いがある事に気がつきます。
人との出会いだけに留まらず、すれ違う人たちの姿や行動や言葉・・・風景や植物だってなんだってそのすべて。
今日、本当に久しぶりにレンタル屋さんに寄ったのですが、何を観たいか心を探りながら、選んでいたら、何故かコーエン兄弟の作品が無性に観たくなって来
た。コーエン兄弟の作品は大好きなのですが、観ていないものもいくつかあって、この『The Future is Now』もそのひとつだった。
とても無意識にこの映画に惹かれたんだけど、これを観ていたら、もしかしてコーエン兄弟って岡本太郎大好きなんじゃない?って思っちゃった。そんな意識の繋がりを感じるような映画だった。
とにかく、面白かった!
ブログの題名に対して、内容は殆ど岡本太郎だったけど、興味のある方は是非観てみてください。
『未来は今』っていう邦題です。
大好きなスティーブ・ブシェミも、お決まりで出てくるかなあ〜って思っていたら、出てきましたよ。本当にちょびっとだけど。あんなにちょびっとしか出て来ないのにこんなに心に残るって凄すぎます。あんなバーテンがいたら素敵だわ〜
実はね、もう一本借りて来ているんですよ。
楽しみです。
よい夜を。
love,
Ryoco
何日か経ち、引き継ぎをしてくれている先輩に、岡本太郎さんが大好きだと言ってみたら、何処からか、このシールを探して来てくれてくれました。
ちょっと、いいでしょコレ。
タロさんの言葉には、とっても救われた部分もあるけれど、自分の中のいわゆるタロさん的に駄目!だった部分も痛いほど突きつけられてショックを受けたりもした。
でも、だからこそとっても深く心に刻まれる。
『強く生きる言葉』という本の帯に、浅野忠信さんが『“瞬間瞬間を爆発して生きろ”とか、まさにそれしかないと思いました。岡本さんにはずいぶん救われました。』って書いていたんだけど、まさに私も同じように思っています。
タロさんの本は、毎日めくってみては、毎日新しい気持ちで勇気づけられているんだけど、以前とっても深く共感し、勇気づけられたのは、
いつだって、どっちかが深く、切ないんだ。人間だからね。
いつでも、片っ方は満たされぬ恋だ。片想いなんだよ。
片想いで、いいんだよ。恋愛っていうのは、片想いなんだ。
っていう言葉だだったのだけれど、下のは、昨夜、改めて「なるほどなあ」って思った、同じく恋愛についての言葉。
自分は恋だと思いこんでいるけれど、実は、いわゆる恋愛ではなく、友情なんじゃないか。
そういうことはよくあるね。
どうですか?
私は、この短い言葉の中に、爽快な真実が凝縮されているって思ったの。
そうそう。今日は、植物とか庭がとても好きな人たちの庭の作品を見させてもらう機会があったのだけど、みんなシロウトなのに本当に凄かった。やっぱり好きだって言う気持ちって凄いって思った。
タロさんの言葉に、『本当の人間はみんな透明な眼をもった強烈なシロウトなのである』っていうのがあるけど、まさにそういうのを垣間み ちゃったような感動を覚えました。好きな事を、ただただその思いだけでやってみる、とにかくやってみるっていうのって本当に、誰にとっても例外なく大切な 事だなって思った。
今夜はこの辺で、おやすみなさい。
よい夜を。
Be TARO!
LOVE,
Ryoco