37 posts tagged “こころ”
もの凄い書いておきたい事が山積みなのですが、それは手帳でもなく、日記帳でもなく、このブログだったりする。
前へ前へと日々進んでいるから、一度書いたものを読み返す事などあまりないけれど、それは手帳や日記帳だって同じこと。だったら、こういう公共の場に記しておいて、誰かの必要な時のお役に立てたらなあ〜と思う。
その確率や、かなり低いのだろうけど、個は全体でもあるのだという事が私の中にあるので、共有出来る限りのものは惜しみなく共有していきたいなあと思う。
初夢、見ましたか?
私は大体いつも、初夢って覚えていません。
3日の朝だったか、民宿所みたいな、合宿所みたいな所の部屋にいて、その窓から外を見たら、もうすぐ側に水辺があって、それは海なのか湖なのか分からないけれど、とても澄んでいるのが分かった。
私の部屋は、何故か開放的な部屋で人が行き来していて、私の部屋を通ってみずに入っていった人の体が、全部透き通って見えたので水の透明度が分かったのだった。驚いて、外に出ると、美しい水が広がっていて、綺麗な苔のような水草のようなものが、ふわふわと密集していて、その上を感触を確かめながら裸足で歩いた・・・というような夢だった。
と、思えば、5日の朝は、もの凄い怖い夢を見た。
私は、古い一軒家のような所にいて、友人やその他の人も数人いて、あるうす気味の悪い人物(見かけは普通なんだけど、ゾンビとしか言いようのない気持ち悪い雰囲気がある人)が殺しにくると予告しているにも関わらず、そこから逃げようとせず、恐怖を感じていた。
どこかで、これは夢だと分かっているからかもしれないけれど、何故逃げないんでしょうね。(笑)
家の片隅で、唯一の男性一人と、もう一人の女性と肩を寄せあって、怖い夜を過ごしていた。この男性が頼りだ・・・!と、すがるような思いだったのに、ふと、「あ、あれをとりにいってこないと」なんて呑気な様子で、なんと夜の窓から上の階(?)に、にょ〜っと行ってしまわれた。
そこからが、怖かった。そのゾンビ男が、「明日の朝、行くからな」みたいな感じで、窓の向こうから一瞬現われて、こちらを凝視しているのが、ぞっとした。
そして、朝。予告通りに現われた男に、恐怖は頂点に。夢だから、銃なんて持っていたらひとたまりもない・・・と思っていたら、ちゃんと銃を持っていて、それはライフル銃のようなもので、乱射し始めた。
そこには、友人など沢山いた筈なのに、そんな時、その人たちの盾になる精神的な余裕や肉体的な反射神経など私にはなかった。「逃げないと!」とだけは叫んだと思うけど、みんな固まってしまって動けないでいるのが、不思議だった。
私は、ガラスのドアから外に飛び出したのだけど、後に続く人がいない。「何故?」と思って、ちょっと中を覗くと、そのゾンビが銃を乱射していた。何故皆逃げないのだろう・・・・と恐怖心の中で思っていたら、目が覚めた。
こうやって、文章にすると、なんとも間抜けな話の流れなんだけど、殺されるかもしれないって言う恐怖とはこんなに恐ろしいものなんだって言うのだけはリアルに感じた。
あまりにも、怖い感覚だけが残っているので(特に、あのゾンビのような男の存在感が気持ち悪かった)、いい夢を見直そうと思って、すぐに寝ました。
その辺のフットワークは、私は抜群なんだなあ・・・(笑)
だって、その後怖くて眠れなくなってしまったら、一日あの恐怖を引きずる事になるからね。おかげ様で、次に目覚めた時には、その恐怖心は消えていた。
この夢を見た時に、ああ、これは精神的なものや肉体的なものが作用していたんだろうなあ〜と思った。
『骨盤にきく』の片山洋次郎先生が、生理について書いていたものが、まさにそうだなあと実感できたという意味では、とても興味深かった!
骨盤から見る生理とは、生理が始まる4日前から右側の骨盤がゆるみ始めて、左側がゆるみはじめると生理が始まるそうだ。
生理4日めが一番骨盤がゆるんだ状態になるって言うのが、ごく自然な変化だそうですが、こういう骨盤がゆるむ、縮むといったことに負荷がかかってうまく行かないと、生理痛などの症状があらわれる。それだけじゃなくって、月経前症候群といわれるものもあらわれる。
骨盤が自然に緩んだり縮んだりする事って、とても大事で、本来は、それに逆らう事なく生活するのが一番いいのだろ思う。それがよく分かるのが、生理の時の体の変化なのかなあ〜と思うのだけど、骨盤がゆるんでいく生理の4日めまでの間に無理をしてしまうと、骨盤はゆるみきれない。特に、4日めは、緩みきって縮み始めると言う変化の時だから、実は一番ゆっくりとリラックスしていたい時期。
でも、4日めこそ、無理をしてしまう人が多いのではないでしょうか?
例えば、生理痛のあった人も、4日めは楽になっている筈だし、出血も少なくなってくる頃だし。
ゆるみきった骨盤は、自然と縮んでいくけれど、ゆるみきらない骨盤は、縮みにくくなるそうです。それはどういう事かと言うと、骨盤の緊張状態が続く事になるということで、それによって、生理不順だけでなくて、色々な体の不調に影響してくるというわけだ。
身体って・・・神秘ですよね。肺が呼吸しているみたいに、お尻だってそうやって呼吸しているのだ。
そのことに、気づいていってあげる事が、忙しい現代人にはとても必要な事だなあと思う。
薬でごまかしている体は、いつか必ずくじいてしまう時が来るのだろう。
だけど、そういう時こそ、身体を調整して立て直すまたとない機会なんですよね。
それは、身体だけに関わらず、人生でもそうなんじゃないでしょうか。
不調なとき、不安な時こそ、じっくりと自分を見つめられるチャンスで、ついていないわ!と、自暴自棄にならないで、ちょっと客観視するくらい突き放して、自分の事を見つめてみると・・・それは忍耐も必要となってくるけれど・・・案外、楽しめるものです。
自分の身体、心、持っているものこそが、最大の実験現場なのだと思う。ここに、自分の人生に必要な宝物がわんさか詰まっているのだ。見つけようと思えば、いくらだって見つけられるのだろう。
無駄な時間など、一秒たりともないのだ。
というのは、最近特に思う事だ。
それは、忙しいこの東京で、あまりにも時間の無駄をしない事に、疑問を感じて思った事だ。
「いかに、時間の無駄をなくす」ということが、いい事だと思い過ぎているのじゃないかしら?と思う。
無駄に思える時間を楽しめなくなったら、この世の中は本当に、イライラする事だらけのつまらない世界に見えるのじゃないだろうか。
それに、「あれは、無駄な時間だった」と、嘆いている時間、いらついている時間の方が無駄なんじゃないかしら?と思う。更に言えば、そういう嘆く時間があったからこそ、そういう時間がいかに無駄だったと思えるわけだから、その時間も無駄ではないのだ。
物事の、底辺にぶつかった時、そこにいかに光を見いだしていけるかということが、人生の醍醐味であると思っています。
それは、逃避とは違うのだ。だけど、ある時期、逃避したっていいのだと思う。
その人にとって、もっと言えば、その人の身体にとって、そうした方がより世界に大きく開いて行けるのだろうから。
人の身体が、ひとりひとり違うということは、その人の哲学もひとりひとり違ってくるのだ。治療方法は、人の数だけあるのだろう。そういうことを、それぞれが真剣に、のびのびと哲学していけば、もっと世界は豊かになるだろうと思う。
哲学や身体は人の数だけあって違うのだけれど、共通している大切な事は、ごくシンプルな事なのだと思う。
矛盾に聞こえるだろうか?
でも、このシンプルな事と複雑な部分の矛盾を、「どうしてそうなんだろう??」と、疑問を持って、自分自身、時には人間同士、自然とだって、ぶつかりあっていく事が、生きる喜びなんじゃないななあと思う。
疑問を持たない人生なんて、つまらないだろうなあと思う。
だって、疑問も何にもないのならば、もう人間に生まれてくる必要などないだろうから。疑問を持つことがない人は、きっとそれにぶち当たるまで、何度でも生まれかわってくるのだろうと思う。
疑問を持つこと、そこまでだって、長い長い旅路なのかもしれないなあと、最近はよく思う。
あかちゃんから大人になるまでの、身体や意識の変化は、魂の縮図でもあって、どんなに立派な大人に見える人だって、魂からしてみたら、あかちゃんの場合だってあるのだろう。
だから、年齢を越えた、他人への敬意というのは忘れてはいけないなあと思うし、そう思えば、イライラする出来事にも、優しくなれるのではないでしょうか?
自分の方が、多く気がついていると思った時、親があかちゃんを無条件で愛するように、その人のことを包み込んでしまえばいい。
敵と思える人こそ、自分にとって最良の宝なのだろう。
一番、イライラする原因に対峙した時に、リラックスできたなら・・・身体が自然にゆるみ縮む事が出来たなら・・・きっと世界はぐっと大きく自由に広がっていくだろうと思う。
これは、多くの人にとって、とても難しい事だろうけれど、人生には、その気になれば、無数に越えるべき面白い壁が沢山あるんだろうなあと思う。
誤解してほしくないのは、無理矢理、イライラする原因を作る必要があるのではなくて、そういうものと対峙するしかない場面に直面した時に、どうやってそれとつき合っていくかということだ。
そういった事に、うまく、気がついていけるようになると、心がのびのびと呼吸をしているのが分かるようになると同時に、身体の豊かな変化が実感できるようになると思う。
そういう喜びは、何にも変えられない、気持ちのいい体験じゃないでしょうか。
私は、あらゆる壁にぶち当たって、とても辛い別れがいくつかあって、色々な哀しみとも直面して来たけれど、もう何も光が見えなくなった事もあったけど、今は、とても光に包まれていると実感している。難題は、生きている限り、消える事はないだろうけれど、どんな時も、光を見失わないでいこうと思う。
最悪の事が起きている瞬間だって、これこそ、最良の経験だわ!って思えるようになりたいと思う。
人生って、やっぱり素晴らしいなあって思うから。
この、地球に生まれて来る事が出来て、本当に良かったと思う。
昨年までの間に、あらゆる、素晴らしい本との出会いがあった。今まで出会ってきたものとも、より深く出会えたと実感している。
心のことを突き詰めていくと、もちろん、行動することが重要になってくるわけで、そういうことを考えていくうちに、自然と身体への色々なアプローチについて知らない事、足りない事が沢山あるなあと感じてくるわけで、そんな時に素晴らしいものとの出会いがあった。
ヨガは、その中でも素晴しいのだけれど、とりわけ昨年感動したのは、他者との関わりという点を考えていた時に出会ったハワイのロミロミと、片山先生の本だろうなあと思う。
こうやって私が日々考えたりしている事は、岡本太郎という言葉で全て説明がついてしまうのだけど、それだけ、彼が岡本太郎として生きた生涯は、尊いなあと思う。
そして、常に思うのが、尊いものは、尊ぶだけでは駄目だと言う事だ。
小さきものは、小さきものなりに、今この瞬間を精一杯楽しむ事が、面白がっていくだけだ。
生命の神秘は、きらめきは、いつだって望めば近づいてきてくれる。
だってね、もともと持っているものなんだから。
さて、恐い夢の話に話を戻すと・・・
何しろ、このお正月、生理一日めから、睡眠時間もままならず、身体を酷使した。でも、精神的にはとても楽しい3日間だったけれど、問題の4日目にあたる時、仕事に戻ると言う憂鬱と思ってしまうようなストレスがあった。それが、大きく身体に作用したんだろうなあと思う。
からだが緩む時期は、テンションが下がる時期。そういう時に、テンションがあがるような事があると、バランスを崩しちゃうんですね。実は、自分でもビックリするくらい鬱っぽい気持ちになった。
でも、そんな時程、「へえ〜、なんでだろう?」と、辛いなあと思いつつも、片山先生の本を開いて自分の身体を観察したら、なるほどなあ〜、骨盤が緩む時期にそうとう頑張り過ぎたせいだなあと思った。
だから、とても面白い経験だった。本当に、4日目って重要なんだなあって。
身体の事を知れば、闇雲に悩まなくてすむ。思わず無理をしちゃって、心身共に辛いなあと感じて、倒れそうになったって、ああ、そういうことだったのかって思えるだけでも、リラックスへの糸口になるものだ。
気がつく事で、ふっといい気がまわって、思いがけず楽しい時間が過ごせたりするもの。
この東京という街は、簡単に、間違った方向へシフトしがちな街だと思う。
強烈に魅力的なエネルギーに満ちているからこそ、強烈に人々のエネルギーが集まっているからこそ、流されていては、あっという間に自分を見失ってしまうのだろう。
どうか、「KY」とか、つまんない事言っていないで、自分を読んでいってほしいものです。
自分を知る事は、他を知る事だと思うんです。
他ばかり気にしていたら、一向に自分の中の宝物に気がつけません。
自分の中に宝物を見つけようとしない人は、いくら空気を読んだって、成長できないと、私は思います。
空気を読めなくたって、いいと言ってしまうけれど、きっと社会生活はそれじゃあうまく行けない事もあるでしょう。哀しいくらいに、空気を読めるようになっているなあと感じたら、読んだ上で、それを打ち破っていくくらいじゃないと、人生は閉じてしまうと思う。
人生は、かってに生きるという意味ではなくて、真に自由でなくてはいけない。そのために、そういった窮屈な社会や「KY」のようなくだらない価値観があるのだろう。
多くの制約の中でこそ、自由に生きていこう。
難しいね。
でも、難しいことも、越えていけば、とても簡単に思えるものだろう。
まずは、大きな夢を見る前に、他人をどうこう言う前に、自分を越える事から始めなければいけないのだ。
精神はともかく、身体は、正直だから。
シンプルに見つめたいならば、まずは身体と向き合ってみたらいいと思う。
愛する人の、不調なとき、お腹に触ってみたりするだけで、色々な事がぐっと聞こえてくるかもしれません。
または、自分の身体を優しく触って、耳を傾ければ、簡単に駄目な所が見えて、笑っちゃうくらいシンプルでなかなか変えられない自分の芯に出会って、感動するでしょう。
大切なことは、治すことじゃなくて、とことんそんな自分を受け入れて、つき合っていく事、愛する人を始めとして、他者をありのままに受け入れ、つき合っていく事。
そして、そこにあるのは、愛と感謝の心じゃないでしょうか。
今、この瞬間、おこっている事は、どんなに酷い事だって、
私にとって、あなたにとって、最善であるという事に、
「ありがとう!」と言える日々でありますように!!
飛躍したいならば、その種を生み出すのは、
それは、私の、あなたの、内側にある。
それは、作り出さなければ、一向に芽が開かないという事を、
忘れないで、生きていこう。
無駄と思える時間こそ、にっこり見つめよう。
Aloha
love,
Ryoco
追記:
そんな怖い夢を見た日、思いがけず、クミちゃんとあつむ君に会い、新年の乾杯をして、楽しい時間が過ごせた。
代々木公園近くにあるLIFEでフルボトルワインサービス券があったのだけど、ワインが好きな人の顔が浮かんでこなかったので、声をかけてみたら駆けつけてくれたのだった。
フットワークが軽いって素晴らしいな〜って感動!自転車で行き来できるって素敵だ〜
前菜も、ピザもパスタもおいしくって、デザートもおいしかったし・・・大満足でした。
そして、なによりも楽しかった〜
とっても大好きなお二人さん、今年も、よろしくお願いいたします!
おいしい林檎もありがとう!
さて〜
すっかり、風邪なのかなんなのか、妙にいいテンションになっています。
こう言う時って、とても疲れてボロボロみたいなんだけど、ふっと光をつかんで、
歓喜できる瞬間を、繊細に捉えられる感じがする。
こんばんは、みなさんはどんな夜を過ごしていますか?
こういう微妙な風邪は、大人と会うのは大丈夫かもしれないけど、子供と会うのは危険な気がします。
・・・・なので、本当はとっても会いたかったアサちゃんのサキちゃんに会うのは諦めました。
また今度、元気な時に遊ぼうね!
今日は、身体がだるいにも関わらず、何だか行きたくなってしまい、電車を降りてabcと言えば青山ブックセンターに行ってきた。
こういうギリギリのというか、結構いっぱいいっぱいの体調のとき、自分の行動はとても雑で効率が悪いようで、実はとても的確に・・・というか、見えない誰かに助けてもらいながら、結局は効率よくまわれているから不思議だ。
着くなり、金原という人のサイン会の案内が目に入ったけど、素通りして、入口のクリスマスコーナーも気がつかず、何故か店の奥まで行く。そして、探していた雑誌のバックナンバーが置いていない事を確認すると、もう用事はなくなってしまったのだけど、ふらふらと絵本のコーナーへ行った。
ぼや〜っとした頭で、本棚を見つめていた。
そして、これ、これ、と何となく気になった本を開く度に、別にクリスマス向けの本というわけでもないものでも、天使がでてきて、心にぽっと光が灯ったような気持ちになって、微笑んでしまった。
最初に手に取った2冊の本が、とても心にうわ〜って来て、涙が出そうになったくらい感動して、改めて絵本の素晴らしさを感じたのであった。
まさに、私のことが書いてあるなあと思った。絵本とは、そういうものじゃないだろうか。
感動した本ならば、きっとそこにあなたもいるはず。
1冊は、クリスマスのお話なので、はるちゃんのクリスマスの贈り物にすることにした。
それから、ふら〜っと一周して、再度、この本屋は不思議だ・・・・まるで私のためにある本屋のようだ・・・と思ってしまう程、あまりにも自分が愛する人たちの本のボリュームが多くて感動しました。
絵本のコーナーでは、私の大好きなばバーバラ・クーニーのフェアをやっていましたよ。
こんなに一同に見れるなんて、まさに夢のようなコーナーでした。
フラフラして、また絵本のコーナーに戻ってて、ふと目にした仕掛け絵本を手に取って開いたら・・・
開いたページに天使があらわれて、さすがにビックリした。
もはやこれは、いつも私の事を守ってくれている天使さんが、「いつも側にいるからね!」と、教えてくれているのだろうなあと思ってしまう程でした。
こういう風に、受け止めて行くと、人生は苦しい事ばかりに見てたって、愉快なことに溢れているのです。
本屋に入って、一番最初に手にした絵本。
これは、本当に感動しました。
これは、出会いだなあ!と、本当に思った。
私は、きっとこれからも何度でもめくって行くんだろうなあと思う。
きっと、この絵本があれば大丈夫って思える瞬間が、いっぱいあるだろうと思う。
荒井良二さんの絵はとっても好きだけど、中でもダントツにこの絵本が好きだ・・・と確信した。
そう言えば、大好きな茂木健一郎さんの出ている『プロフェッショナル仕事の流儀』、次回は荒井さんですね。見逃さないようにしないと・・・・
結構、最近はみたいと思っていたテレビを見逃すからなあ。ぱたっと寝てしまったりして。
このプロフェッショナルもそうだけど、この前も、『情熱大陸』で見城徹さんをやるから絶対に見ないと!と思ったのに見逃しました。
見たかったなあ〜〜〜
話は飛んでしまいましたが、荒井さんの続きです。
私が最も愛する作家のうちの一人、レイ・ブラッドベリの新作『さよなら僕の夏』の表紙は荒井さんが描いています。これは、『たんぽぽのお酒』の続編なんですねえ。
実は、この物語、ブラッドベリの作品の中で私が好きなものと、ちょっと違っているせいか、持っているけどまだ読破していないんです。でもきっと、いつか必要な時に一気に読んでしまうのだろうなあとは思っています。
それにしても、ブラッドベリ、もうとってもお歳を召しているのに、精力的に作品を発表していて、彼なら当たり前の事なのかもしれないけど、凄い事だなあと思う。
もう本当に大好きな作家です。
次に手にしたが、この絵本。
駒子さんの『よるくま』も大好きだけど、これも素晴らしかった・・
絵本を読んで、こんなにあたたかい気持ちになれるなんて。
絵本は、子供のころに触れた物語の感動した心をいつでも瑞々しく思い出させてくれる。
私は、小さい頃、本当に物語の世界を愛しまくっていた。
その好きな世界観が、この物語にはいっぱい詰まっている。
きっと、子供に読んであげるお母さんも、とても気持ちが良くなってしまうんじゃないだろうか。
色使いも、もの凄く素敵で、ずんと引き込まれて行きます。
はるちゃんに、このよるくまくんを会わせたいなあと思った。
そして、この二冊の絵本には、天使が入ってますよ。
帰ってきて、テレビをつけず、ラジオが聴きたくなってラジオをつけた。
そしたら、オノ・ヨーコさんの『イマジン・ピース・タワー』の除幕式の様子をやっていた。
この光の塔の建設をしたのは、アイスランド!
大好きなビョークの故郷だから、一度は行ってみたいと思っているアイスランド。
これで、ますます行ってみたくなっちゃった。
いつか、行けたらいいなあ。
この除幕式は、ジョンの誕生日に行われたそうで、ジョンの願いが叶ったんだなあと思うと、今でもジョンの魂は生きて活動しているんだなあと思った。
私がオノ・ヨーコさんに出会ったのは、高校の近くにあった大好きな市立図書館だった。
太い本・・・題名は『オノ・ヨーコ』だっただろうか・・・が最初の出会いだった。
確か、本を読んで泣いた気がする。深く深く感動した。
あの図書館では、本当に今でも心に残る本の出会いが沢山あったなあ。
そういう体験のお礼に、私の絵本を寄贈したけど、何だかいらない本を受け取るみたいな、荒い対応をされて、結局図書館には入れてくれなかったみたいだから、きっと古本に交じって、入口の古本(ご自由にどうぞ)のコーナーにでも置かれてしまったのだろう。
ほかの図書館では、そう言う冷たい対応はなかったから、かなり残念であった。なんというか、対応の悪さを見ていたら、まるでそこの人間関係がうまくいっていないのが目に見えて分かってしまった。
皆がいっぱいいっぱいという感じだった。対応してくれたのは、アルバイトみたいなおじいちゃんだったんだけど、オロオロして、奥に引っ込んだと思ったら、きっと奥で言われたままであろう台詞を機械みたいに繰り返して、さっさとお引き取りくださいという感じの内容を私に伝えるだけだったっけ。
オノ・ヨーコさんは、この光の塔を別に、ジョンの誕生日だからって作ろうと思っていたわけじゃないと言う。
始まりは、40年前で、コンセプチュアルなものでしかなかったのに、ジョンがそれを作りたいと思った事で、二人は出会ったと言う。そんなエピソードは初めて聞く気がして、それをヨーコさんの言葉で聞けた事は本当に嬉しかった。
『不思議でしょ!』と、インタビューで光の塔がこうして形になるまでの長い道のりを語るヨーコさんの言葉は、とても嬉しそうでキラキラしているのが伝わってきた。
そして、リンゴやそのほかの人に見守られ、除幕式で光の塔が披露された時の様子を聞いていたら、ラジオだから見えないのに、見えるようだった。
そして、見ているわけでもないのに、涙が溢れて溢れて仕方がなかった。
想像しただけで、それが素晴らしいものだって言うのが分かる。
アイスランドの大地に、空に向かって何処までも光って行くその様子・・・
是非、この目でも見たいものです。
こんなに素晴らしい塔ができたのは、本当に奇跡みたいだなって思った。
本当に、聞き慣れてしまったLove&Peaceだけど、本当にそれが一番大切だと心から思います。
愛こそ全て。
愛があれば、世界は大丈夫だと思う。ずっとずっと小さいころからそう思っていた。
だけど、それを忘れると、Peaceが壊れてしまうのだろう。
ジョンとヨーコというひとつの愛の形から、宇宙全体の愛へと広がって行ったのはごく自然だったのだろうと思う。それは、彼らがとても純粋だからで来た事だろうと思う。
全体の幸せ無くして、個人の本当の幸せなどあり得ないから。
前に、私の心からの苦しかった事も含めた愛についての話を、心を開いて話した人に、「人の不幸は蜜の味」と言われた事がある。彼女が心から聞いてくれていると思ったら、そういう気持ちで聞いていたんだと思って、ビックリした事があった。その後に、多分私はもう知りたくもないけど色々と掻き回された一連の出来事は、きっと深い誤解と言う溝を作ってしまっただろう。その後に、私が経験した絶望的な体験は語る事はないだろうけど。そういう心ない人が間に入って、大切なものを歪めてしまって行くという事が、きっとこの世界には多いのではないだろうか。
それが、個人のレベルで起きても悲劇だけど、それは起こる場所によっては、大きな戦争にだってなりかねないのだろうから。
とは言え、例え、もう会わないにしても、心の中では永遠に大切である人との間に、きっともうこういうルートを辿ってしまった以上、何を言っても無駄だろう修復できない大きな溝が出来てしまったとしても、もう全ての事を私は許している。
相手が例え私という人間を誤解していたとしても、愛とは与え続けるものだから。
こちらが、純粋にその人を含め、世界中の人に愛を送り続けて行こうと思う。
どんなに辛い経験も、そこに学びがあって、その辛い経験こそ、大きなプレゼントなんだと思う。
そう受け取る事で、辛い経験、許せないと思えるような怒りや哀しみなどの負の力が勝ってしまいそうな経験でも、喜びに変わる。
感謝できる。
全ては、必要だから起きている、その時の私に相応しい最高の経験なのだ。
きっと、そうやって愛と感謝の心を実践して行けば、きっとPEACEは夢の話じゃないと思う。
『イマジン』という歌は、ダライラマ法王をはじめ、仏教で言う思いやりの心、を含んでいるだろうと思う。
思いやりとは、想像力で、愛と感謝の気持ちが沸き起こる原動力になるものだ。
「むかつく!」とか言って、イライラした時、きっとそういう瞬間は社会に生きていたら沢山あるだろうけど、そんなとき、ちょっと想像してみたらいいと思う。
相手の事、自分に起こっている学びの事。そしたら、きっと、余計な憎しみを抱かずに生きて行けると思います。
私は何故か、希薄に思える人間関係の中でも、ふとした瞬間に心の深い部分のダークサイドを打ち明けられる事がある。それは、一瞬の出来事であったとしても、言葉で伝えられたからには、その人が相当にそれについてのフラストレーションにさいなまれているという事だろうと思う。
結局は、それを越えるのはその人自身の気づきにしかないし、その力はそれぞれの手の中にある。
だけど、それを聞いてしまった側としては、暫く考え観察する機会を与えられる事になる。だけど、それ以上の事は出来ないのだ。人が人を真に助ける事は出来ないと思っている。
自分を助けられるのは自分次第だからだ。
だけど、サポートする事は誰にでも出来る。そして、祈る事も。
だから、私は何も出来なくても、心から祈っている。
「あの人とあの人の間に、あたたかい光が流れ出しますように」と。
私は、決して「人の不幸は蜜の味」なんて思えない。人が不幸であれば私だって幸せとは言えないのだ。
それが、どんなに苦手な人であったって。
シンプルな事だ。
だけど、そのシンプルな事にどうしても手放しで感動できない人が多いのだろう。
自由に、心を解放したら、きっとシンプルな事程感動できると思う。
それは、とっても小さい気づきに感動できるという事なんだと思う。
そう言う事に気がついたら、世界は本当に奇跡に満ちあふれています。
そういうことは、きっと子供のころは知っていた瞬間が必ずあった筈だって思います。
そして、そういう感動が多ければ多い程、いつまでも若くキュートであれるのだろうと思います。
ヨーコさんも、ダライ・ラマ法王も、岡本太郎も、敏子さんも・・・ってあげていたたら沢山でてきちゃうけど、みんなキュートでキラキラ輝いて、光に満ちている。
それぞれが、自分の哲学や方法で、そうありたいですね。
簡単な事程、実はとても大切で、忘れられがちなのだ。
馬鹿にされるような事程、実はとても素晴しいのだ。
自分の深い部分で共鳴した事に、素直にYES!と言える勇気を持とう。
きっと、それはそのうち勇気を出さなくてもよくなる。
そうしたら、人生はぐっと広がり、近づいてきてくれる。
そして、なんて色彩豊かな美しい世界なののだろうか。
Aloha
love,
Ryoco
とってもよく晴れた日曜日。
久しぶりに、自転車で遠出してみた。
・・・って言っても、目的地は思っていたよりも全然近くて、
思いっきり通り過ぎ、気がついたら明大前駅手前まで行ってしまった。
「こっちへ行ったら、全然違うだろうなあ〜」と感じつつも、
ちょっと知らない道を走りたかったのだろうなあ。
久々の、知らない道探検だったから。
そして何よりも、
ピカピカに晴れた空が、自転車で走る心を躍らせてくれた
住宅街を走り、井の頭通りを吉祥寺方面へと走らせると、
何故か、長野のおばあちゃんちのほうへ行ったかのような
田舎だなあ〜と言う雰囲気が漂ってくる。
都会なんだけど、
何だか、山に包まれているような、
ほっこりした雰囲気があるなあと思った。
途中に、この辺りに住んだら気持ちいいだろうなぁ〜
と思うような地域もあって、
とっても楽しかった。
東京は本当に面白い。
とても狭い所に、家がひしめいていて、
ほんのちょっと行っただけで、
ガラリと街の雰囲気が変わったりするのだから。
今日は、東京に再び恋をする日だったと思う。
そして、
「さて、そろそろ下北沢のあの店に行こう」
と思ったら、私の傍らにナビゲートさんが現われた。
正直、どっちに行ったらいいか分かっていなかったから、
迷子状態ではあったのだけど、
不思議と、直感で着ける気がしていた。
そう思っていたら、ひょっこりと、自転車の女の子が現われたのだった。
彼女は、「着いてきなさい!」と言わんばかりに、
狭い道をビューンビューンと飛ばし、
どんどん道を曲がるから、すぐに見えなくなっちゃうんだけど、
私も頑張って走りまくった。
かなり、スリリングな狭い道だった。
あんなに、華麗に私が走ることはないだろうなあと言うくらい、
惚れ惚れする走りだった。
そんな事を呑気に思いながらも、必死に追いつこうと急いで彼女の走った道を曲がると、
まだ少し先に、彼女の姿はあって、すでに次の角を曲がろうとしている。
そんな感じで、ギリギリのタイミングで何とかついて行った。
それはもう、「本当にこっちでいいのか?」と思う余地もなかった。
そして、ようやく下北沢商店街の看板が見えた所で、
す〜っと見失ってしまった。
ビンゴ!
人生って素晴らしい!
と、ちょっと嬉しくなった瞬間だった。
そして、その道をす〜っと行くと、
行きたかったカフェに着いたのだった。
初めていくのに、まるで知っている道のように着いてしまった。
そして・・・
長い間行ってみたかったけどきっかけがなかったそのカフェは・・・
最高だった。
こんなカフェが近くにあったら幸せだ・・・と、
心から思った。
このカフェ、何かのフリーペーパーの「BOOK'S LAND CAFE」
というコーナーに載っていて、そのフリーペーパーはすぐに捨てちゃったんだけど、
記事だけはずっととってあったのだった。
いつか、行ってみたいと思っていた。
何で気になったのかな・・・?
やっぱり、高橋恭司さんの写真が置いてあると書いてあったからかな〜
とにかく、行ってみたかった。
カレーを食べようかと思っていたのだけど、
パンのプレートがとっても魅力的だったから
コーヒーがついてるセットを注文した。
デジカメが壊れているから、写真は撮らなかったけど、
もの凄く素晴らしい盛りつけだった。
目も喜んでいるのが、自分でよく分かった。
そして、見た目に負けないくらい、とても幸せな味でした。
「そうそう!こういう味に出会いたくてもなかなか出会えなかったの!」
という感動があった。
パンの種類と、お肉と魚は、2種類ずつあって選べるようになっていた。
ほかには、温野菜、生野菜両方あって、たっぷり!
真ん中には、タマゴサラダ。
プレートを持ってきてくれたマスターが、
「ちょっと、肉が大きいかも」って指差して笑っていた。
なんて言うか、やっぱりお店は人だなあと思った。
その人が、味にも空気にも表れるんだなあって。
それはもう、入った瞬間から感じたことだった。
いい店って言うのは、そういうものなんだなあとしみじみ思った。
置いてある本も、自分のうちじゃないだろうかってくらい、
好きな本しか置いていなかった。
許されるならば、何時間でも座っていたかった。
流れているピアノの音も、とっても素敵で、心地よかった。
それから、植物も、とても可愛がられているのが伝わってきて
そういう小さな事が、全ていとおしいなあと思った。
食事が終ったら、さり気なく冷たいおしぼりをくれるって言うのも、
心遣いだなあって。
本棚の前に、人参の葉の部分だけが、ずらずら並んでいたんだけど、
これ、うちの母もキッチンでやっていたなあって、親近感が沸いた。
人参って、葉っぱがニョキニョキ出てきてかわいいの。
お会計の時に、「どうでしたか?」って聞いてくれたのも、
何だか嬉しかったなあ。
「凄く美味しかったです」とだけ言って、
心の中で「また来ます!」と呟いた。
そして、とっても幸せな気持ちで、
ビューンと井の頭通りに出た。
途中で、「あ!マルイチに寄っていける・・・」
と、いい事を思いつき、道を逸れてビューンとひとっ走り。
ちょうどあと数分で焼き上がるというタイミングで、
今日は、シナモンレーズンとブルーベリーを買ってきました。
マルイチのペーグルは、買いに行く事も含めて、
私の元気の源。
今日も、笑顔が素敵でした。
「いつもありがとう!」
と、心の中で呟いて、にこにこしながら帰宅。
今日幸せだったのは、
何も素敵なカフェに出会ったからではなくて、
色々と日々の点と点が繋がって、喜びにつがっているのだなあとしみじみ感じた。
その喜びがあるから、カフェに行ったのだろうし、
マルイチにも行けた。
ひとつの点とは、とても大変な状況で苦しんでいた
私の弟分が、素晴らしくきらきらと回復してきたこと。
まるで、雨ばかり降っていて、死にかけていた植物が、
一生懸命光合成がしたくて、太陽の光をもとめてもがいていた時に、
祈りが通じたみたいに太陽がひょっこりあらわれた。
それに感動した植物は、「ありがとう」って叫びながら、
むくむくと立ち上がろうとしているような、
まさにそんな生命力をつぶさに見てきたので、嬉しくて涙がこぼれた。
そんな中、私の中でも色々と
決意したことがあって。
それが、もうひとつの点てん。
その中の一つが、
“この東京で、これからしようとしている道を開いて行こう”という事だった。
これについては、ここのところ、ずっと悩んでいたのだけど、
信頼の出来る霊的力が開いている方に、
「(あなたが)拠点とするのは、沖縄とハワイはとってもいいね、
だけど、一番いいのは東京で開くことだね」と言われて、
すっとした。
私の中で、ハワイ島に住みたいというのがあったけど、
「やはり東京で生まれたのには、ここで見るべきことがあるからじゃないか」
というのがあったと思うから。
「ハワイには、行ったり来たりするといいよ」
って言われたのも、嬉しかった。
私は、どうやら沖縄とかハワイとか、とにかく島に深く前世からの縁があるそうで、
それは、自分でもなんとなく感じていたから、すんなり納得できた。
私の前世は、とにかく数えきれない程生まれかわっているそうで、
アジアだけでも、中東の方から、端は韓国まで、全部って言っていい程の地名があがってきた。
ヨーロッパ方面もたくさん生まれているそうだ。
もちろん、ハワイにも生まれていたよっておっしゃっていた。
「とにかく、あなたはいっぱい・・・少なくとも300回以上は、生まれかわってるからねえ・・・」
と言われて、「それって、何度生まれかわっても解脱できないバカなんじゃ・・・」
とは、怖くて聞けなかったけど(笑)。
ただ、少なくとも、幼い頃から、ずっと抱いてきた想いというか感覚みたいなものがあって、それは、
「私はまわりのお友達より沢山生きているような気がする」ということだったのだけど、
それをさらっと言ってくれたので、
ああ、見える人にはちゃんと見えるんだなと思って、
小さい頃から、人よりどうしても多くが見えてしまうことが、本当に辛かった事が沢山あったけど、
そういうもの全てを、すっと浄化して頂いた気がして嬉しかった。
そして、その短い間に、色々な事が確認できたことは、とても私にとって大きかった。
「こうなんじゃないだろうか」って自分だけで思っていた勘のようなものが、
概ねあっているのだというをひとつひとつ確認して行くことが出来た。
その方とお話ししていて思ったのは、
魂って言うのは、おぞましい事や、哀しいこと、怖いことは大概忘れる事が出来て、
思い出さなくてもいいことなのだという事だった。
そして、とても美しくて幸せだった記憶は何処かに、映像として残っているのだなあというのも、
強く感じた。
多分、私は前世で、様々な酷い経験もしているだろうと思う。
何しろ、何度も転生しているのだから。
でもそれは、それは過ぎてしまった過去なのだ。
その分、私は今生できらきらと輝かなければいけないのだ。
誰にとってもそうであるように、私にとってもそれが一番の課題なのだなあという事を
深い感動とともに感じる事ができた。
そして、涙がこぼれてきた。
私の中に見えていた、南の島のビジョンと、ギリシャの美しい高台にある建物の四角い窓、
とてもよく晴れていて、そこから広がる景色がとても好きだったという、そのビジョンを
まるで、今みているように何度も何度も思い出していた。
そういう事は、全て遠い記憶だったのだなあと思うと、
何だか、とても素直な気持ちになれた。
今まで、そのビジョンを見る時に、そこで感じていたものなのか、
熱い気持ちがこみ上げてきて、仕方がなかったのだけど、
今は、それをにっこりと笑って見つめることが出来る。
そして、過去に、殆ど世界じゅうで生まれていたのだなあ、というのが分かって、
幼い頃に、心が張り裂けるくらいに恋いこがれた、世界じゅうを冒険したいという想いについても理解できた。
あれは、それまで過ごしてきた土地への、強烈な郷愁だったのかもなあと思った。
そして、そういうことに思い至って、ようやくその執着から解放された気がした。
今生は、この東京でやっていこう、と言う煮え切らなかった思いに、迷いがなくなってきた。
確かに、かつてはそう思っていたけれど、
大人になって行くに従って、心が色々な色に染まり過ぎて、
澄んだ水の底が見えなくなっていたという事なのだろうと思う。
気になっていた、ハワイについてのビジョンについて、たずねてみたら、
ハワイで、私は男に生まれたこともあるし、躍ってもいたけど・・・
とにかく、色々とやっている人だったねえ・・・っておっしゃっていた。
いったい、何が見えているのかなあ。
でも、なんとなく分かる気がした。
今の自分を見ていると、よく分かるから。
それは、いい面もあるだろうし、悪い面もあるだろう。
その両方のバランスを取って、自分の力を宇宙に還元して行くことを、
繰り返される輪廻転生の中で、何度も迷ったり失敗しながら、
チェレンジし続けてている、
それが、私と言う魂なのじゃないだろうか。
そして、それは、もっと大きく言えば、
みんなそうなんだろうと思う。
私たちは、
もちろん、みんな個々違うけど、
大きく見たら、宇宙も全てひっくるめて、ひとつなんだろうと思う。
そして、人は、きちんと自分を見つめ、宇宙を見つめて生きていれば、
選択して行くこの人生で、その、選択する瞬間の自分の勘は、
もの凄い勢いであっているのだと思った。
それが、選んで行くことだろうと思うし、
瞬間瞬間が、選択の連続なのだろう。
それは、岡本太郎さんも言っていたっけ。
やっぱり、彼は精一杯生きに生きた、凄い人なのだなあと思う。
そして、本当に、瞬間瞬間を喜びで生きることが、
愛と感謝の気持ちで生きることが、
生命の全てなんだなあと思った。
宇宙全体で、そうあれるよう、
生涯をかけて、
祈り続けようと、
心に強く、決意した。
今、地球はいつ生命を失ってしまうかと言う
限界が見える所まできてしまったのだ。
私は、もしまた、転生するならば、
この地球に降りてきたいと思う。
そして、またみんなに出会いたいと思う。
だから、この宇宙のために
祈って行こうと思う。
きっと、地球の生命を失うことは、
宇宙にとってもとても悲しいことなんじゃないだろうか。
いずれやってくる、避けられないことだとしても。
ここに戻ってきたい魂、戻ってきた魂のために、
宇宙と一緒になって、祈り続けたい。
さて・・・ここで嬉しかった、面白い(?)お話をひとつ。
誰にでもついている守護霊のようなもの・・・がいますよね、
私には、なんと、かわいい女の子のエンジェルがついているらしいです。
天使がついているなんて、考えたこともなかったけど、
何故か、最近とても気になって、天使のカードを買ったのですが、それというのも、
ずっとずっと側にいてくれたエンジェルが、
「そろそろ気がついて!」って言っていたのかもしれないなあと思った。
そして、そのエンジェルは、私の七五三の写真にもとても綺麗に写っていた。
(何となく気になって、この前その写真を父に探してもらっていた。)
それが、何年も経った今、ようやく分かったって言うのも、
今が大きく変化する時期だという事なのかなあと思います。
虹が、これでもかっていうくらい沢山出てきた夢も然り。
とにかく、来年は大きく変化して行く時期だそうで、
体調とか、色々な面で落ち込むから、しっかり気をつけるようにという事でした。
それにしても、そういうスピリチュアルな話は、私にとってすっと入ってきちゃうので、
30分話せる時間はあるのに、15分くらいで聞くことがなくなってしまって、おかしかった。
感動して、満足してしまったのだから、時間の長さは関係ないだろうけど、それにしても早かったなあ。(笑)
今回、お話しさせて頂いて、
人間という生き物の、哀しさと、嬉しさが、
色々と私の中に、じんわりとゆっくり押し寄せてきて、
今まで出会った人たちに、改めて感謝の気持ちが沸き上がり、
愛の気持ちで満たされて、
祈りとともに、
「ありがとう」と「さようなら」をした。
奥から熱い涙が込み上げてきたけれど、
これが、浄化なんだなあと思った。
長い歴史の中で、
この地球上で、何度も別れては、出会ってきた、魂同士、
出会った瞬間に化学反応が始まって、たちまち愛になっていく、
自分ではどうすることも出来ない早さのなかで、
「また別れるのだ」という事を、魂の深いレベルで知っているのだ。
それが、涙となって、止めどもなく流れていた。
愛が深くなればなるほど。
うまく、説明できなかったその化学反応の全てについて、
今はとても明瞭に理解できる。
そして、とても切ない気持ちにはなるけど、
もうそれに押しつぶされることはないのだ。
今はもう、執着はないけれど、
残っている大きな愛に、涙がこぼれた。
長い時を越えて、少しずつ、本当に少しずつ
その魂同士でしか学べない課題をぶつけあっているのか
そう思うと、言いようのないくらい哀しみを感じるけれど、
一方で大きな喜びでもあることも確かだなあと思った。
そういう種類の愛を学ぶ魂同士は、出会った時に、
どうしようもない爆発を起こすのだなあと思った。
出会えた喜びと、別れることを知っている深い哀しみの
その両方が、再び愛を深めれば深める程、
濃くなっていく一方なのだ。
そして、それを、痛い程に確かに感じていたなあと
思い出して、少し胸が痛んだ。
そして、それが本当にきらきらした思い出になっているのを
確認できた喜びが、涙となってこぼれたのだろう。
そして、
これからまた訪れる、
新しい出会い、
そのひとつひとつを大切にしていこうと
ようやく、喜びで迎え入れる心が、
小さく花開いたような気がする。
それ以外の多くについても、
ここまで、とても苦しかったけど、
ひとつのスタートラインに立つための旅がひとつ、
ようやく、完了したなあと思う。
そして、新たにまた、長い長い旅に出る。
人はみんな、こんな風に、何度も旅をしているんだね。
そして、まだ見えていない大切なことも
これから出会って行くのだろう。
地球に生まれてきてよかった。
何度、絶望しても、
何度、恋をしても、
何度、病気をしても、
何度、さようならがあっても、
何度も何度も、この美しい地球に生まれかわってきたい
この世に、生命のぬくもりがあるうちは、
何度でも生まれかわって、
抱きしめていきたいと思う。
SAY ALOHA!!
愛する人たち、出会って別れた人たち、
見知らぬすれ違う人たち、
出会うことのない人たち、これから出会うだろう人たち、
すべての人たちに、
ALOHAの心を!
love,
Ryoco
追記:
歌うことは、本当に気持ちがいいなあと思った。
最近は、サンディの歌ばかり聞いていて、それが今、私にとても必要なエネルギーなんだと思うけど、
今回のことがあって、
何となく、久しぶりに森山直太朗さん(直ちゃん)の曲を聴いたら、やっぱり彼の曲には
もの凄く浄化とエネルギーの力があるなあと思った。
本当に、音楽って、それだけで何よりも素晴らしいと思う。
そう思わずにはいられないくらい素晴らしい何かがある。
昨日の午後、
何故か、背骨に重いものがのしかかったような気がして、
何度も自分で治そうとしてみるけれど、
どうにもこうにも身体が重くなるばかりで辛かった。
そして、夕方、その理由が分かった。
それは、愛する者の必死の叫びだったのだろう。
それから、とにかく全身全霊で
言葉を紡ぎ、祈りをそそぎこんだ。
そして、一秒も無駄に出来ない時間で
必死に伝えるべき所に助けを求めた。
私は、かつて経験し大切な人の死で、
人ひとりの存在が、この世から消えてしまう事
どんな風に宇宙に影響してくかを
叫びたい程の時間をかけて見てきたと思う
終わりが見えない深い暗闇は
きっと、地獄よりも苦しいはずだと思った
だからこそ、
今、その輝きが分かるのだと思う
死を持って、
人間の輝き、
生命の神秘を
教えてくれた愛する人
そんな彼女がいたからこそ
今の私の道があり、
今この瞬間の、そして、この先の役目があるのだと
本当に、そう感じている。
祈りの心は通じるものだなあと
本当に感じた
そんな二日間だった
そして、
まわりで起こる事全ては、
自分と無関係ではないのだという事が
本当によくわかった。
人は、助けている側も
助けられている側も、
相互に、助けられているのだと言う事
それがよく分かった。
そして、
どんな状況でも
感謝して行く事の尊さを
改めて感じた。
耳を澄ませば
そこら中に学びがあって
そして、感動がある
それは、大きさで感じ方が違うだけで
毎日起こっている事なのだ
そのどれもが欠かす事の出来ない
きらきらしたプレゼントなんだ
そういうことの
素晴らしさを
透明な水の底をみるように
汲み取る事が出来た
感謝
そして、愛
ALOHA
人間というのは
驚くほど幼くて、愚かだから
死の淵を見ながら
生きるべきなのだろう。
死を見ないで生きる時
人はまだ、真に生きていないのだろう。
苦しみに出会い
引き受ける事は
最高の感謝するべき事なのだ
死の淵をそこに見ると
生の輝きが
溢れるほどに見えてくる
改めて、それを感じた
人は、
忘れてはいけないなあ
生きる哀しみと喜びを
そして、
一番の薬だったのは
おおらかなユーモアだった
それはまるで、
魔法のようだった
その魔法の後
祈りの力が
ふわっと動いたように見えた
ユーモアには、そういう神秘の力がある
それから、
すべての人が繋がっていて
地球の裏側の事は
無関係ではなくいということを
はっきりと理解できた
あるとき、
その問題と
全く無関係な事がきっかけで
意外な事がはっきりと
見えて来る事がある
そんな感じだった
人間は、本来、
本来とてもチャーミングで
かわいい生き物なのではなかったか。
深刻になりすぎる事なく
どんなに深い考えにも
自由という
太陽にも負けない明るさがあったのではないだろうか
そういう
チャーミングな人間の姿を
垣間みた
沢山話していて、
何度も一緒にご飯を食べていて
毎日一緒に仕事の話をしていたって
コミュニケーション不足を感じざるを得ない
人々が多い今日
それをがらりと変えるポイントは、
想像力であり
思いやりであるという事を
忘れてはいけないなあと思った。
ずっとずっと
祈り続けていこう
自由な意思と
愛を
やわらかい身体に包み込み
出会う人、起こる事、
全てに感謝して
ほほえみを忘れずに
そして
そうあるならば
おのずと
ユーモアに溢れていくはずだ
光を見
祈り続けて行こう
アロハの心で
私たちは、皆
オハナ(家族)!
Mahalo
Ryoco
考え続けるということは、物凄く贅沢なことだ。
人は、人生の中で、あーでもないこーでもないと悩み、迷いながらやきもきしている時間のほうが多いのかもしれないとも思う。本当は、そんなのは20代くらいまでには卒業したいものだけど、色々な局面で悩み迷いながら、進んでいけばいいと思う。
逆に、迷ったりしないという人は、どことなく信用が出来ない。問題にぶつかって悩むからこそ、自分の中から水が沸いてくるように、じわりと深い考えが生まれるものだと思う。大して迷うことなく、そんなに悩むこともなく、ただなんとなく過ごしている人は、思っているより案外と多いのかもしれないが、それは本 当にもったいないなあと思う。
でも、その人生の中にも必ず、きらきらしているものがあって、のほほんとしている人にも、しかるべきタイミングでしかるべき誰かがきっかけをくれるのかもしれない。苦しみも、歓びも全て人の上に平等に在るはずだから。
とにかく、人は生きて死ぬまでの間に、学ぶべき瞬間が必ずあるということだ。その瞬間が見えたとき、逃げることなく、しっかり掴んで成長して生きたいものですね。
セレンディピティ(serendipity)という言葉は、ここ数年よく耳にしているかもしれませんが、今年は、その言葉のような出会いが多いなあと、ふと思った。
先日、久しぶりにちょっと立ち話をしたMieと、こんな会話をした。
「どう?最近は?」
「どうって?」
「彼氏できた?出会いは?」
「うーん・・・」
というわけで、残念ながら、この会話にあるようなタイプのセレンディピティはまだないようですが・・・
このところ、活字中毒か!というくらい目が開いていれば活字を読んでいます。
夢中になっていると、途中で「は!」っとする。そして、そんな時は、活字を離れて、ひとり考えることで、頭の中身を整理します。これが、結構いい休憩になる・・・という感じな事を繰り返している気がする。
外から見たら、さぞ地味なのだろうけど、本人的にはかなり派手 に動き回っている感じがしています。
それに伴って、身体的も動かしたくなって、朝に少しだけヨガをしたりもしているんだけど、本当はきれいな海で泳ぎたい気分!
そんなことたちは、なかなか見えそうで見えない創作へと向けられていると同時に、全体のことを考え続けていくという小さいころからの信念のようなものに繋がっているのだろうと思っていて、一生やめないのだろうなあと思う。仏教で言えば大乗仏教について、学び実践していくことと近い気がするけれど 、ようするに、日々の小さい問題を受け入れながら、自己満足ではなく、宇宙なのかそれ以上の何かなのか、とにかく全体を抱きしめ、大きな愛(のようなもの)で満たして生きていなかねばと強く思っている。
それを実践して生きている(生きた)偉人は沢山いるでしょう。だけど、私は、それは何も偉人だから出来た特別なことではなく、誰でも、そのように生きていくべきだと思っている。偉大な人が、この世に出ている本の数くらいしかいないとしたら、この世はなんて絶望的なんでしょう、と思う。実際それに近い世の中なのかもしれないけど、偉大な人には、心ひと つで近づいていけると思っている。きらきらと光るものは、空に輝く星と同じように、全ての人の近くにあるはずだ。
それに気がつくか気がつかないか、また、気がついたらそれにぶつかっていくかいかないかで、生活の彩りは違ってくるのだろうと思う。どうか、そのことに、世界中のみんなが気がついて、歓喜して生きていけますように。
私の中で、それを瑞々しく感じることが出来るようになったのは、岡本太郎さんの残したものとの出会いが大きいと思う。岡本太郎がここにいることを忘れないで生きることは、太陽が身体の中心でピカピカ輝いているみたいな感じがする。
岡本太郎の生き方には、全ての人に大切なものが詰まっている。それは、人間からはみ出して、爆発して宇宙に届くくらい溢れている様子が、私には見える気がするのです。
さて、そんな中、ここ最近私が出会ったものについてちょっと触れてみようと思います。
それは、
常々私の中でふわふわと漂っている子供の気配と、
常々考えている「人は皆、違っていていいということ」や、
なぜか常々頭から離れない何かしら困難な状況にある子供たちのこと
に関すること。(特に友達や兄弟に子供が生まれるようになってから頻繁に考えるようになってきた)
小児がんで苦しんでいる子供や、知的障害やダウン症などを抱えて生きる人、孤児となってしまった子供たちなどなど、あらゆる困難にある子供について、ふと集中的に考えさせられることがしばしばある。
そして、そういうのが、ここ数日で、わ〜っとあった。
先日は、実の親が分からない祖母の人生について考えていたときに、たまたま孤児について書いてある文章に出会って、孤児で生まれることについて考えていたら、これまた、たまたま読んだ別の文章の中に、『赤毛のアン』について書いてあって、「そういえばアンは孤児だったか」と思い出して読んでみたくなった。
本屋さんに行くと、同じ作家のところに並んでいた『かわいいエミリー』という本に出会った。読んでみると、これは出会いだなあと思えるような、共感出来る素晴らしい物語が冒頭から溢れ出していた。
その夜、たまたまつけたTVの特集(NHK「クローズアップ現代」)で、知的障害者についての問題をやっていた。そこに出ていた出所する事になった知的障害を持つ女性は、生まれたときは孤児ではなかったかもしれないけれど、今となっては高齢で、身寄りがない。おまけに、国の保護もなく、何より色々な助けとなるよい情報がその人まで届いてい ないという大問題があった。そんなわけで、住む家もなく、食べるものもなく、結局犯罪を犯してしまう。そして、刑期を終えても根本的な解決に繋がるわけがなく、悪循環が続いてしまうのが現状で、そういう人が、非常に多いのだという問題を取り上げていた。
アメリカに、PA(プロテクション・アドボカシー)という団体があるそうで、日本でも徐々に活動が始まっているようですが、まだあまり知られていないのが現状のようです。ホームページをみてみると、まだまだネットワークは全国的に広がっていないような感じです。
私たちは、もっと色々な状況にある人々について知らなければいけないなあと思う。
世の中の多くの仕組みや色々な事は、需要のあるものに重きが置かれているけれど、知的障害者のようなあらゆる障害者というのは、決して少なくはない筈です。日本は、それらに、目を向ける機会があまりにも少なすぎるのだと思います。
だから、多くは、そういった障害に対して、どちらかと言うとマイナスイメージを持ちがちなのではないでしょうか。本当は、何も悲しい事でも、恥ずかしい事でもなんでもない筈なのに。
自分の事ばかり考えて、気持ちのいい席ばかり選んでどっかり座って、自分の事を棚に上げて人の事ばかり批判しているような歪んだ汚い心のほうが、よっぽど悲しむべき困難の多い障害だという事に、気がついていない人の方が多い。
すべての人たちが、「私がかわいい」という思いを捨てれば、状況は大分違っていたのかもしれません。
健常者には想像もつかない身体的、経済的などの困難な状態について、知る機会が自然にあったなら、普通に手を差し伸べる事が出来る場面が増えるだろと思う。
少しはよくなってきているとは言え、今の絶望的な現状のなか生きる障害者の方々、それを支えようとして生きる人を見ていると、本当に深く感動するとともに、その間に見えた彼らの小さな喜びに、何か大きく温かいものを与えられたような気がした。
そして、健常者として生まれてくるだけでも、どれだけそういう事と遠くなってしまうかということが分かった。彼らが抱えた悲しい思いや、そのなかにあるささやかな喜びについて、普段の生活で接する事がなければ、私たちはなかなか想像に及ばないだろう。
そんな殆ど知られておらず、目を向けられる機会が少ないのが今の現状だけど、こういった番組を通して、彼らや、彼らを影で支えている人たちの想いが、どんどん伝わって、障害者、健常者という言葉の中にある、いらないを壊して行けたらいいなと、強く願っています。
私は、全ての生きとし生けるものは、障害者だと思っているけれど、先天的に、目に見える障害を背負って生きる人たちは、生まれた瞬間から、そのことと対峙して生きている。
その事実そのものが、大きくて大切な何かを、知らぬ間に私たちに与え続けてくれているのだと、はっきりと感じ、それについて見落としている事がまだ沢山あるのではと、深く考えさせられました。
その事について、衝撃を感じつつ、深く考えながら、眠りについた翌日、なぜか真っすぐ家路につかないで、ふらふらと遠回りして有機野菜を買いに行き、さらに足を伸ばして大好きな古本屋さんに寄ってみた。ある小説があるかどうか気になっていたからだ。
そしたら、その中で思わぬ出会いが待っていた。
私の目に、凄く素敵な色使いの絵が飛び込んできた。
小さな本屋さんで、Atelier Aの展覧会が開かれていたのですが、私は近所にこんな試みをしている人たちがいることを全く知りませんでした。
作品は、展示されているものの他に、ひとりひとりのファイルされている作品も置いてあった。
見ていたら、何か熱いものがじわっと私のほうに流れ込んでくるのを感じて、思いがけず長い間見入ってしまった。それらの殆どは、ダウン症と言われている人たちの作品だったのだけれど、どれもとてものびのびとして 、自由に違っていて、素晴らしかった。
とても暖かい気持ちになって、感動しながら帰宅すると、気持ちとは裏腹に、バイオリズムのせいもあって身体がぐったりしてしまって、横になりながらおもむろにTVをつけてぼ〜っとしていたら、偶然にもまた、ダウン症についてのドキュメンタリーが始まった。
NHK教育テレビ『福祉ネットワーク』という番組で、『だから、あなたも生きぬいて』の著者であり弁護士である、大平光代さんのお話が中心となって構成されていたのですが、その中に、彼女が勇気付けられたという本の作者との対話があった。
その作者岩元さんご夫婦の、娘でありでダウン症の綾さんは、絵ではなくて文章に魅せられている人だった。
岩元さん夫婦の、子育てのお話は、本にもなっているそうだけれど、番組の対話でも、丁寧に正直に思った事を語られていて、壁にぶつかりながら、それでも負けずにまっすぐに、愛をもって生きてこれらたのだなあというのが親子3人の全部にあらわれていて、お話を聞いていたら、心に清らかな水が流れて身体を包み込んで行くような気持ちになった。
大平さんご自身は、現在子育て中ですが、その迷いながらも真っすぐに我が子を見つめている眼差しは、とてもきらきらしていて、世界にあるとても美しいものとしっかり結びついているのが、手に取るように感じられて、私まで大切な何かを分けてもらったような気がして、温かい気持ちになった。
私は、そういった人たちの力になりたいと思った事もあったけど、ここ数日、上のような人たちの息づかいに出会って、つくづく思ったのは、私は普段接していなくても、彼らに沢山のものを与えてもらっていて、無意識のうちに大きく助けてもらっているのだなあという事だった。
人間は、助け合い思いやって生きて行くものだと思うから、私も与えてもらっているだけではなくて、何か出来る事があればやって行きたいと思う。
豊かな緑と、美しい水は、私たちを静かに取り巻いていて、包んでくれている。
最近、それをとてもリアルに感じている。
また、きらきらしたものを発見したりあ!っていう気付きがあった時程、それを瑞々しく感じる事が出来る。
そして、それらの美しさに心から気がつくのは、自らの障害から目をそらさず、向き合い、受け入れる事が出来た時なのじゃないかなあと思います。
別の言葉で言えば、自分をありのままを見つめ、受け入れる事が出来たとき、周りの世界にある美しいものに出会えるのではないかなあと、そんな風に最近は思っています。
私は、色々と考え前へ進んでいるけれど、まだまだ未熟です。
日々、迷い、闘い、喜び、精進して行く中、
世界中の人たちの日々の笑顔を願って止みません。
love,
Ryoco
追記:
大平光代さんの放送は、再放送もあるので、見逃した人は是非見てみてください。
NHK教育 福祉ネットワーク
再放送:9/12(水) pm1:20〜
先日の、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、助産師・神谷整子さんだったのですが、そのもの凄いお仕事ぶりを見て、見ている間中、ず〜っと力が入ってしまった。そして、深く感動しました。
そして、本当に自分の仕事を愛されているのだなあというのが伝わってきた。
こういう時、それを見た人は、ただ感動するだけではいけないと思っている。そこから、感じるものがあったなら、そこだけにとどまらず、深く考えるべきなんだと思う。
そうじゃないと、その素晴らしい出会いはなんて勿体ないことでしょう。きちんと受け取って、その感動をエネルギーにして世の中に還元して行くことが大切なんじゃないでしょうか。
そんなことを思いながら、最近は、世間の色々なことに絶望を抱きつつも、なにくそ〜っていう情熱が、静かにむくむくと沸き上がってきていて、学ぶことが楽しくてしょうがない。
そんな中、ふと本屋で日本の美しい庭の写真が載っている本を見かけて、弟にどうだろうかとぺらぺらめくっていたちょうどその夜、弟から電話がかかってきた。
久しぶりだったので、色々と仕事の話も聞いていたのだけれど、ああ、ここにいたんじゃないか・・超プロフェッショナルが!と、つくづく感動してしまった。
今までもそうだったけど、やはり身内だから、どんなに凄いなあと思っても、まだまだ!と、厳しい目で見つめてきていた。
だけど、さすがに凄いなあ、これは少なくとも真似出来る人はなかなかいないだろうと思われる、立派な職人であり、実質上のりっぱな精神力を持つ経営者だと思った。
この夏、実家に帰った時に弟とちょっと話した時に、やっぱりそうとうな忙しさで、そんな忙しさの中で、要求以上の仕事をしている姿を見て、こりゃ生半可な気持ちじゃできないわって思ったし、やっぱりよっぽど仕事を好きじゃないとできないだろうと感じたので、「でも、そんなに苦しい状況でも仕事好き?」と、質問してみたら、即座に、「いやあ〜、楽しくてしょうがないねえ〜」と一点の迷いのない返事が返ってきて、密かにもの凄い感動したという事があった。
あんなに、身が滅びそうになるくらい仕事しているのに、「楽しくてしょうがないねえ〜」って心から言えるってことに、少なからずショックすら感じていた。身体も大きくなったが、いつから弟はこんなにでっかい人になっていたのだろうと、すでに私の実務経験上の想像の及ばない範疇にまで来ている気がする。
純朴で、真っすぐで、仕事に対しては、バカがつくくらい正直である。決して、頭だけで仕事をしていない。だから、庭師と言う専門に捕われることなく、施工はもちろんのこと、営業でも、クレーム処理でも、事務的なことも、従業員のしきりも、あらゆる人間関係の橋渡しも、全てやっている。
中でも、一番やっかいなクレーム処理で、仕事の内容的にも時間的にも神業的な結果を出して、逆に顧客に喜ばれて帰ってきちゃうんだから、他の業者に不思議がられるもの当たり前だろう。わざわざ、あまりにもビックリして、思わず電話で質問してくる他業者の人がいるくらいだと言う。
弟は、園芸や農業関係の学校で専門的なことを学んでいないのに、もの凄く専門的な知識と技術のいる仕事を選んだ。実は、そこに大きな強みがあったのかなあともう。
最大の弱点を背負って飛び込んだからこそ、それに負けない何かが必要だった。それが、仕事に対する情熱とか姿勢とかそう言うものだったのだろうと思う。
弟の中では、頭が良くないと言う気持ちもあるらしく、そういうものを抱えているだけに、情熱だけは誰にも負けないという気持ちで仕事を始めたのだと思う。それが、経験とともに薄まることなく、逆に膨らんできているのだから、本当に天職だったのだなあと思う。
そして、それは本当に、幸せなことだなあと思った。
だけど、弟の凄さは、通常は陰に隠れていて目に見えるものではない。人に相談出来ないくらいの大きなものを背負っている。その、大きな孤独の中、闘い続けているところが本当にプロフェッショナルな部分だと思った。どうか、このままその情熱を燃やし続けて行ってほしいと思う。
そんな中、ちょっと前までやっていた豪邸の庭を持つお家の奥さんが、心から弟の仕事ぶりに感動してそれを言葉や態度で十分にあらわして喜んでくれたそうで、奥さんがそこまで喜んでくれたことが、弟の今までの仕事の中で最高の喜びをもたらしたらしく、心から幸せそうだったので、私は誇らしいなあと思いました。
人生の必要な時に、ちゃんと自分を見てくれ、恵みの雨のような言葉をくれる人というのは、頑張っていれば必ずいるものです。そして、そんな時に降りそそいだ雨は、それはありのままの評価なのだと思います。
そういうのを、素直に喜べるのもひとつの才能なのかもしれない。
昔は、弟は若さという言葉で片付けられないくらい、とても繊細で、行き場のないエネルギーが爆発していて、手に負えないような時期があった。そんな中、何度も根気づよく励ましたこともあったけれど、そういうもの凄い時期を通ったからこそ、若い時期に自分の深層部への旅を嫌なくらいできたのだと思う。
だからこそ、今は、人のために生きて行けているのだなあと思う。
人の喜びが、心から自分の喜びと思えるようになって初めて、人は『越えられなかった見えない何か』を越えられるんじゃないかなあと思う。
もちろん、弟も日々反省し、学ぶことの繰り返しのようです。
私が、「でも、毎日四季の移ろいを感じられる職業って幸せな事だと思うなあ」って言ったら、「そうだよね、そうやって初心に戻ってみないとなあ」と言っていた。
いやあ。
私は弟にこんなに尊敬の念を抱く日が来るとは、正直思っていなかったかもしれない。
どんなに荒れていても、弟の奥にある強い芯と情熱があると感じていたから、信頼感はあったけれど。
過去に、生と死が常に隣り合わせのような危なさがあったからこその、現在の、プロフェッショナルだと思った。
そして、残念ながら、こういうプロフェッショナルに生きている人は、全体の一握りしかいないというのが現状であるかもしれないけれど、本来は、みんな適当なところで収まっていないで、生と死が分からないくらい本気で生きなければいけないのだ。
すべての人の中に、岡本太郎がいて、本気を出せばみんな岡本太郎になれる筈なんだ。
弟は、自分を『バカ(=勉強ができない)』と思う所から始まっている。だから、強いのかもしれない。
バカの壁は越えるものじゃなく、自分の栄養として平気で取り込んでしまうくらいのバカさが必要で、それが普通は難しいのだ。
火事場のくそ力くらいの瞬発力で、毎日を生きるということは、自分の中を空っぽにしないと出来ないことで、それは、バカみたいに見えるかもしれないけれど、人間と言う頭でっかちさんを、とても素晴らしい成長へと誘う大切な要素なのだなあと、弟の成長を見て感じた次第でありました。
それに比べて、私はなんて中途半端なんだ!もっともっと頑張らないと!と、叱咤激励しながら、毎日を無駄にしないで、静かに情熱を燃やして、爆発して行きたいと思います。
まあ、もっとも比べる事はしなくていいのだけれど。ただただ、学んで、ゼロでもないし100でもない、今ここから、臆せず始めていけばいい。いつも、産まれたての赤ちゃんみたいな目線が、人生には不可欠なのでしょう。
プロフェッショナルとは、そのまま、人間として生きるという姿勢ではないでしょうか。
だから、本来はだれもがプロフェッショナルであるべきなんですね。決して、特別なことじゃない。だから、他人のことだと思って感心している場合じゃないのだ。
そのことを、一緒に感じ、考えてくれたらと、私は真剣に思っている。
だから、もっともっと、民放も『プロフェッショナル 仕事の流儀』みたいな番組をやるべきだなあと思う。
あなたが今、手にしている一番確かなものは、「今」だけだということ。
不確かな可能性に甘えていたら、一生その可能性は見えないと思っていいでしょう。
可能性というのは、そのまま「今」自分を深く見つめたら、今もちゃんとここにあるなあと感じることが出来るものなのだという、厳しい現実をしっかり受け止めて生きて行こう。(逆に言えば、今感じないものは、未来にだってありはしないという覚悟が必要だということ)
もしくは、信じきる事でしょうね。今ここに見えていないけどちゃんとあるんだ!って。
ひとつの他人事と思われる事なく、少しでも個人個人の心に届いていき、共に生きるもの同士、臆せず、あーだこーだともっと自由に、素敵に、みっともなくたっていいから、爆発をしていけますように。
こうして生きている人間同士が、ぶつかりあって、化学反応をして行く事が、人生の醍醐味でしょう?
充実した秋を
love,
Ryoco
昨年の終わり頃から、私が出会い、手にする本たちは、生と死への強い探究心と、創造しようとする者としての苦しみ、また、それに伴う社会的な営みに関す
る苦しみからというのももちろん内包しているけれど、自分の中に渦巻いているものを言葉として表現している、またはそれについて様々な考察をしている人と
出会いたかったという事が大きかったと思う。ダライ・ラマ、岡本太郎に関連する本は、色々読んだ。
私は、学生の頃は読む本の大半が小説、またはそれに関する本だったというのは以前ここに書いたと思うのですが、今ももちろん小説は読んでいるのですが、圧倒的に哲学的なものが多くなっている気がしています。
どうやら、眠っていた脳のある部分が、思い出したように活動しているようです。
そして、数ヶ月前に一気に出現してしまった前髪の白い毛も、この際、そのせいにしようと思ったりし始めています。
私は、毎朝、私の愛する人たちをはじめ、世界中の人々の心に喜びがありますようにと、祈っているし、自分自身も、喜びを抱き一日を過ごそうと心掛けている。
だけど、人間というのは、もし幸せしか目の前に用意されていなかったら、なかなか真に学ぶ事を求めないのではないかなあと思う。
もっと言うと、人との違いについて、深く傷つき、深く感じ考えた経験こそが、人生に彩りと深みを与えてくれるのだと思う。そして、それが喜びに繋がっていくのだと思っている。
違いについて、深く考えた事のない人は、それについて深く傷ついた事がない幸せな人と言えるのだろうか?それは、多いに疑問だと思っているし、私は、幼い頃からそれについて考え、感じ、闘ってきている気がする。
自分の事は見事に棚に上げ、他人の欠点や(私からみると全く欠点と見えない場合が多いけど)、障害らしきもの、容姿、行動、様々な事に関しての、世間的
な違いをあげて、馬鹿にする人がいる。この場合、世間というのは、自分と重ねているのだろうけど、その全てが何とも滑稽に見える。(もちろん、そこに愛情
のあるユーモアが介在している場合は、また別の話だけれど。)
当然と言わんばかりに、同意を求められても、困っちゃう。
滑稽に見えるどころか、あまりにひどいと、怒りすら感じてしまう時があるのは、私の人間としての力量のなさだけれど、そこへの情熱が私を突き動かしてきているとも言える。
私に関して言えば、幼い頃から、世間とのズレを感じて生きてきた。特に、個性を伸ばす教育というよりは、“みんなと同じ”を暗黙の教育にしている日本
は、窮屈すぎたし孤独を感じた。私の思考は、何でこんなに早いのだろうと、誰に答えを求めていいか分からず苦しんでるなんて、理解してくれている母ですら
その大きさは感じ取れなかった事だろうと思う。そして、私は、今の子供たちの中には私のような子供もいるだろうと思っている。
きっと、子供らしい子供ではなかったのでしょう。大人ですら、発想が子供じみていると感じることが多く、それは深く絶望する共に、その事が私を本の世界へ誘った。
記憶に残るひどい大人は小学生の頃の先生だった。人間としてどう考えてもおかしかった。都内から、とある県に引っ越してきた私は、何故か特別扱いされ、
確かに少しは勉強が得意だったというのはあったかもしれないが、音楽の授業でフリーハンドで5線をひくのですら、大げさに褒めちぎり、黒板にお手本を何度
でも書かせた。体育の授業では、鉄棒登りが素晴らしいと褒めちぎり、皆の前で何度も鉄棒に登らせた。お陰で、脛が赤く晴れ上がってしまったのだった。
そう言いつつも、評価がいい加減だったのは、次のお話で明らかになる。冬休みに凧に絵を描いてくるという宿題があったとき、私は父の好きだったタンチョ
ウ鶴を描いた。今は絵などあまり描かないし、苦手意識すらあるけれど、その絵はもの凄く夢中になって描いたし、自分でいうのも何だけど、上手くかけてい
た。
先生は、いい絵には金、銀と賞をつけて行ったのだけれど、どう見ても上手とは言えない絵を選んでいた。だけど、それについて私は全く気にかけていなかったのだけれど、ある休み時間、クラスメートが先生に無邪気に質問をしているのが聞こえてきた。
「先生、この絵すごくきれいなのに、何で賞に選ばなかったの?」と、私の凧を指していた。先生がどう評価したのか聞いてみたかったので、そのままそっと
そば耳をたてていたら、「これは、大人に描いてもらったに決まっているじゃない〜。そんな絵は問題外よ〜」と来たものだから、その時の私のショックは想像
出来るでしょう。
確か、その後、たまらなく反論したような気がする。しかし、先生は決めつけてしまっていて、聞く耳が何処にも生えてなかった。
子供の能力を、ある一定のものと決めつけていて、子供はこうでなくてはという概念から逃れられない先生。あんなに長い間子供と接していて、違いの素晴らしさについて考える瞬間がない先生は、不幸だと思う。
その先生は、その後、もっと私を唖然とさせた。子供たちから貧乏と思われていたし、ちょっと仲間はずれにされている生徒がいたのだけど、その生徒に服な
どの施しをした事をわざわざ黒板の前に立たせて私たちに聞かせたのだ。先生は、弱い人にはこうやって手を差し伸べましょうと言いたかったのだろうし、まわ
りの子供たちは、ちょっと感動すらしているようだった。
しかし、私は先生の想像力のなさに、本気で目の前で起きている出来事を疑ったし、暗く重い気持ちで絶望するしかなかった。
実際に、この事は、施しと辱めを受けた本人と私くらいしか覚えていない思い出だろうと思う。幸い、その子は、とてもキラキラした明るい性格の持ち主で、
子供にありがちな、ふっと風向きが変わっていじめられなくなってからは、いじめていた子供たちに何の恨みも抱かずに、無邪気に遊んでいた。
小さい頃から、そういった差別的な態度に敏感で、強い憤りを感じたり、人との違いについて大いにやりづらいと思ってきた。人の目を気にしなくていいのだけど、そうさせてしまうような空気が日本の学校にはあると思う。
だから、早く大人になりたいと願っていた。それは、特に高校生までは変わらず強く思い続けていた気がする。
私は、今の先生とよばれる人たちをはじめ、親もそうだし、全ての大人が、まず、人との違いについて、何も批評しないことを願っている。子供たちは、大人をみて育っているのだから。
よっぽど敏感でない限り、その歪んた精神は、気づかれることのないまま、そのままそれは受け継がれて行く危険性があると思っている。現に、そのことに疑問を持たない大人が何と多いことか。
それは、なんてつまらないことだろうと、心の底から思うのだ。そして、勿体ないと思う。
人と違ってもいいのだということを、子供たちに伝えたいし、というか、いいんだなんて言う前に、違って当たり前なんじゃない?と言いたい。
傷ついている人には、違っていいんだと伝え、勘違いしている人には、あなただって障害者だのだよと伝えたい。
違いや障害あるから、私たちは生まれてきたのだと思うから。
そのことは、愛があれば必ず理解出来ると思っている。
だから、愛が一番大切だといいきっても私は何も後悔しない。
そして、愛は誰もが持っている筈のものだ。
身体的な病気だって、精神的な疾患だって、鬱病だって、他人と上手く話せなくたって、セクシャリティに問題があったって、容姿が悪くたって、貧乏だって・・・などなどのいわゆる世間的にマイナスと思われがちなその違いは、何も恥じるべき点はない。
反対に、上記のような世間的な欠点らしきものがなく、しあわせにみえるひとだって、それを鼻にかけてはいけない。
そんなの、鼻にかけていないと、みんな言うだろうと思う。
だけど、そう言いつつも、世間的にマイナスと思うようなことが不幸だと思っている人は、無意識のうちに、差別的な態度を取ってしまうのだ。哀しいことに。
それは、本当に恐ろしい事だと思う。
その無意識が、どれだけその対象にされる少数の人たちを影で傷つけているか。その間違った認識こそが、重度の障害であると気がつかない事は、既に当たり前になっている世の中だ。
これは、本当に、みんなが気がつき、変えて行かなければいけない事だと思う。
人の会話の多くが、批判だったりうわさ話だったりしないだろうか。
そんなことより、もっと語るべき面白い事が沢山あると思うし、それ以上に大切で難しい事は、他人の前でバカになれるかどうかという事なのだろうなあと思う。
その全ての点で、飛び抜けて素晴らしかったのが、岡本太郎なのだなあと思う。
どんなに難しい本を読んで、感動しても、岡本太郎の生き様を見ると、小さく見えてしまう事が多い。
きっと、彼は宇宙にとても近い人間(というかそのものかもしれない)だったと思うし、それと同時に、岡本太郎は、全人類と同じとも言えるのだなあって思えるところが、また凄い。
私は最近、書きたいのに書き出せないという苦しみを感じている。
頭では色々思い描くし、メモも随分しているが、書き出せないでいる。
別に作家として食べているわけじゃあるまいし、じゃあそんな事考えなければいいじゃんって思うでしょうが、それは私もそう思う。(笑)
だけど、書きたいと言うことは、ずっと思ってきている事で、それについて書けなくて苦しいなあと思う時期、時々、何故そんなに書く事について考え続けるのかしら?と悩んでしまう時もある。
そんなある日、茂木健一郎さんのクオリア日記と出会って、さらに、ここ最近はその魅力に取り付かれたように、過去のものまで読み込んでいる。音声ファイルなども、90分あるものがあったりするから、面白くて仕方ない。
その体験から、まさか、今の私の書く事の悩みについて答えを求めようとは少しも思っていなかったのに、不思議なもので、意識は常に繋がっているんだなあと思わずにはいられない本に出会った。
茂木さんの日記もまだ全部読み終えていないけれど、もっともっと彼の本を読みたいという、いつもの夢中になるととことんの性格で、本屋さんにいった。
脳に関する本が並んでいる棚をこんなにまじまじと眺めた事なかったなあと思いつつ、わくわくしながらも茂木さんの著書を探していた。
そんなとき、出会ったのが、この本だった。
これは、茂木さんが解説をしているのだけど、まさに少なからず私も悩んでいる事を、本当に面白い経路を辿り、冷静に、かつ愛と情熱を持って書き進めてある本だった。
茂木さんの日記を読む前から、脳については色々と関心があった。だから、茂木さんに辿り着いたのかもしれないけど、そのあたりはもう忘れてしまった。(笑)
普段はあまりつけないTVをつけた時にやっている番組も、脳に障害を持っている人や、小児がんと闘う子供、深い孤独と闘ってきている人、など、明らかに
目に見える障害がみえる人について考えさせられる事が本当に多くて、これは偶然じゃないのだろうなあと感じているのだけど、その中でやっぱり違いについて
苦しむ人たちについて深く考えさせられる事が多く、それを考えていくと、心や愛のこと、芸術の事、それらを考えていたら、哲学や宗教的や感覚の部分だけで
なくて、科学的な角度からも見てみたいと言う思いから、脳の事も考えるようになった。
それは、本当に思いつきでしかなかったけど、凄く素敵な出会いだったと思う。
茂木さんのお話は、本当に面白いし、考えさせられるし、感動するし、日々共鳴している。
そして、この『書きたがる脳』は本当に、私にとっては助けになる、出会いの本になるだろうと思う。
まだ、読んでいる途中だけど、そのなかに、
すべての精神的な仕事は傷んだ身体でなされる
と書いてあったのが印象的だった。(彼女の表現の素晴らしさで印象深いところは沢山あるのだけど、それはひとまずここでは書きません。)
ここで、この本について私なんかが簡単に色々語れないと思いつつ、共感出来たからそれをちょっとお話しすると、身体的な障害が、書く事に繋がるという事はとても理解出来る事だなあと思ったから。私自身が感じた身体的な苦しみから。
とは言え、この本を読んでいると、私の苦しみなんてまだまだ甘いと思ってしまう多くが見えてくる。
そう言えば、岡本太郎さんも、晩年はパーキンソン病にかかってしまった。しかし、全身全霊をかけて、一瞬一瞬を静かに爆発させていったその素晴らしい歓喜の代償が病気だったとしたら、それは不幸ではないと思う。
私は、自分の身体についてそんなに鈍感じゃないと思っているので、脳か神経系の何かが傷を負っていることは、最近の調子からも何となく感じている。
だけど、それは全て因果からきているのだなあと思っているから、受け入れないとって思っている。そして、その傷の中に書くということの意味みたいなものも含まれていると感じている。
そういう事を、この本は勇気づけてくれるだろうと思っていて、その点でも本当に希で素晴らしい本だと思っています。
闇を見つめる事が出来るから、
光が見える。
傷を負うから、
大切な事が見える。
人と違う性質について、偏見を抱かれたからこそ、
本当の喜びが見える。
何度でも言う。
その障害(世間一般的なマイナス要素)を、恥じてはいけない。
本当の意味の自由は、それに気がつかない遠く、
気がつけば、いつだってあなたの手のひらにある。
そのことは、これからも、何度でも言い続けよう。
今日の最後に。
これも、先日TVをつけたらちょうど始まった、サヴァン症候群のキム・ピークさん(映画『レインマン』のモデルとなった人)が講演で毎回言っているという言葉を。
これは、まさに私がずっと感じてきている事だったので、とても感動し、共鳴した。
人と違うことは悪いことじゃない
人はみんな違うものなんだ
—キム・ピーク—
ひとまず、まだ物語は始まっていないけど、
どんなに精神的、身体的に苦しくても
私は、自分との闘いに屈する気は
まだないようだ
そんな自分を受け入れよう
そして、苦しみと喜び、
物事の対極を見続けよう
その、ありのままで、
きらきらしている美しい宇宙を
見失わず、書き続けたい
うまれたての
あかちゃんをみよ
愛を込めて、
love & humour,
aloha,
Ryoco
この一週間は、私にはどうも不釣り合いなスケジュールでござんした。
面白かったし勉強になったけど、やっぱり家に帰って来て、ひとりになるとほっとする。
先日、まだあってまもない人にバスケとかスポーツの話になって「チームプレー駄目そうですよね」って言われちゃったけど、まあ確かに得意じゃないかもなって思う。かけっことか、そういう競技の方が好きだった。
って、いきなり何の話かと言うと、色々な気持ちを抱いている人のが渦を巻いている中にいるっていうのは大変だなあって思う事が多分にあった週でした。
それを考えたら、チームプレイのスポーツのようにひとつの目標に向けて行くもののほうが、よっぽど分かりやすくって得意かも知れない。
いるだけじゃ進歩がないから、そんな中、ただただ流されたり押されたりして、自分を失う事なく行かないとって思います。
だって、色々あります。具体的には書かないけど、欲望が渦巻いている都会には。色々な歪んだ価値観もあるだろうし。
さて、緊張するシチュエーションで美味しいもの食べたり、もうとにかく今まであまり出会った事のないような人ばかりいる中にいることを改めて感じたり
(笑)、(いつもは徒歩か電車かバスか・・っていう公共機関しかつかわない私ですが)2日間でタクシーに3回もタクシーに乗ったり・・・って、わざわざ
書く必要ないけどとにかくそんな感じの事が押し寄せている今日この頃でした。
さて、そんな盛りだくさん(?)の週も、いよいよ金曜日。
さあいよいよ心置きなく仕事をしよう!と、食べる暇もない位働いて、ようやく半分は完成に近づいて来た同夜更け、illustrator特有の弱点が爆
発して、さっきまで大丈夫だったファイルが、ファイルの中に描かれた何かが原因で(といっても高度な技術は何も使っていない)、作成したファイルを開く
と、次々にデータが破損して行く・・・という凄い経験をしました。しかも、さっきまで普通に開けていた・・っていう状況だから、もうこれは完全にソフトの
弱点で、手に負えない。
経験して始めてぶち当たる壁だけど、そこを通らないと到達出来ない仕事の場合は、そこをどう代用して行くかがとても難しく本当に厄介な話だ。(って、
10年くらい前までは、携帯も持っていないし持つことはないと思っていた超アナログな人だったとは思えない話題だなあって思うと、可笑しい)
壊れたのは、朝から晩までまる一日かけて作った半分だったけど・・・量にしたら膨大だ。
時間がないのに最悪な事態になっちゃて、何故かmacのPCサポートはないし、他にこのことを理解して助けられる人は全くいないから、とにかく自分でな
んとかしなきゃいけないんだけど、その時すでに夜更け、どう考えても電子データ特有の不可解な事故なので、検証するにも時間がかかりそうだったので、取り
敢えず打ち切って、この先作業する時間も本当にないしどうしたらいいのだ〜っていう不安のまま、思いきって今日のところは手放した。来週あらためて検証か
ら始めてやり直すことにはなるのだけど。
そんな中、いつもとても元気がよくてセクシーで男性の中でよく働く女性が、一瞬帰って来てそんな私に気がついて、声を掛けてくれたので、思わず細かい事
は伝わらないだろうと思ったから、大変な事態になっているって言う事情を説明したら、凄く忙しい筈なのに、目にも留まらぬ早業で、さっとコンビに行って水
とかヨーグルトとかチョコラBBとか買って来てくれた。
感無量ですよね。こういう心配りの出来る人って、本当に凄いなあって思って、感動してしまいました。
「助けられないけど、頑張ってね」って言う心の中の気持ちが伝わって来た。
こういう事って、普通は思っているだけで出来ない事の方が多いものなのだと思うけど、思っているだけじゃなくて先に行動しちゃう、そんな彼女の素晴らしさって本当に大切だと思うし、私にはまだまだかけている部分だって思う。
それにしても・・・久々に、水の泡だ〜って心底思う経験をしたけど、まあこれもいい経験ということで前向きに!
お金や労力もそうだけど、それによって生じる電気とか排気ガスとかエネルギーの無駄もしているわけで心も痛いけど、そんな感動もあったわけだからね。感謝を忘れたらいけません。
とは言いつつ、思いやられる!!
offの時に先のonの事を考えちゃいけないけど、やっぱり考えてしまって気が重い、そんな週末を迎えています。(笑)
寝不足だったにも関わらず、休むまもない程働いた挙げ句のショックな事件・・・の割には、意外と元気!と感じていたけど、家に帰って来たら久々にクタクタでベッドに傾れ込んでしまって、何もかもそのままで意識がなくなってしまいました。
昔は・・・って今もだけど、超ハードワークでもちゃんと公共機関を使って帰るのだけど、自転車の置いてあるところまでだけでもタクシーで帰って来れてよかったって思った。混んでる電車は心身ともに応えただろうから。って、久々に弱ってるなあ!(笑)
そして、目覚めたら早朝の空がなんともきれいだった。
というわけで、おはようございます。
土曜日の今日は、父の定年退職祝いのため、ちょっと色々と準備もあるのだけど、何故か脛の内側に痛いしこりが出来ちゃったので、念のため、久々の病院にも行かなきゃで、これまた忙しい感じです。
今日は今日の風が吹く。
そんな感じで行きたいです。
でも本当に、世の中、色々な人がいますよね。絶対関わらないだろうって言うような人にだって、関わるときってあるものだなって、近年、特に最近思います。
色々な人と出会って、関わって、それがかなりの苦手な環境だと思ったとしても、自分なりにそこで学んで、どんな環境でも、どんな人にでも、感謝の気持ち
で心をオープンにして行けるようになりなさいって、そんな、私にとってぶち当たって行くべき課題を、しっかりと突きつけられているのだと、ビシビシ感じで
います。
そしてきっと、そんななかに沢山学べる事があるんだなあって。だからもちろん、そういう状況を不満に思ったりするのは見当違いで。
自分に起こる様々なことは、いい事も悪い事も含め、全て自分に責任がある。だから、決して人によってもたらされる害と一瞬でも思う事なく、心して対決して行かなければって思い心掛けています。
だけど、自分を殺して無理していろいろやっても仕方がない。同じような人付き合いをしなくてもいいけど、どんなに難しい状況でも、心から周りにいる人た
ちを大切に想える人になりたいなあと思います。どんな人ともっていうのって、結構難しいけど、大切な事だと思っています。
きっとね、忙しさとか欲望とか自分の事でいっぱいな人とか、行動を伴た形で人を思いやる気持ちが希薄になっているのが目立つ現代、何度も、前向きな純粋な気持ちにそぐわない壁にぶちあたるっていう状況って、世の中に沢山あると思う。
でも、そんなのにも負けず、感謝の気持ちと思いやりの気持ちを忘れずにいたら、きっといい風も吹くだろうって、私は思っています。
さてさて。
ソフトの致命的な弱点が引き起こす、全てが水の泡・・・っていう恐怖体験。ちゃんと使っていても、そんなとんでもない落とし穴にはまってしまう、PCの
こわ〜い特性。本当に理解しがたい話でもあるけれど、電子上の、本当は本当に脆い部分に人は色々なものを託したり詰め込んだりしているが現代なんだなあっ
て思う
まあ、人類は、そうやって色々な壁にぶち当たって学んで進歩して行くのですね。
だけど、電子が溢れる現代、お手軽に、簡単に便利になって行く現代、もっと言ってしまえば、気がつかないうちに離れられなくなっていて、薬物のようなものになっているコンピューター。
そういうなかでも、生身の人間としての、本来大切にするべき自然との対話や、様々なものに対する思いやり、そして、何かに頼るのではなく、自分の中から沸き出す想いや想像力を忘てはいけない。
忘れてしまって、どこかに置き去りにしてしまったら、本当に人間として生まれてきた事が台無しになるでしょう。
さて!
寝不足で迎えている週末の早朝。
二度寝ないで、このまま行っちゃいましょう!
みなさん、くれぐれも、onとoffは切り替えてよい週末をお過ごしくださいね!
お仕事の方は、頑張ってください!!
love,
Ryoco
不完全で
欲深くて
人生の殆どの道を踏み外し
迷い
時に悪魔になり
時に妬み
羨ましいと思う
怒りやストレスは日常
メディアや街は悪口で溢れ返っている
そうかと思ったら自己嫌悪したり
世の中は、なんてどうしようもない
人間で溢れ返っているのだろうか
だけど
それが人間なんだ
人間とは
不完全なもの
だから、愛おしいと思う
そんな人間模様を
旅している
波にもまれつつ
流されそうになりながらも
きらきらした心で、
目を見開いて
そしたら見えた
人間はとても美しく
とても透明な光を内包していて
暖かかった
そして、その光は
どこまでもどこまでも
広がっていて果てがないようだった
その先にあるのは
空
なのだろうか
人間は
どこから来たのだろうか
この世は
どうやって出来たのだろうか
宇宙の
そのまた向こうは
存在するのだろうか
知らなくていいし
答えは無数にあり
同時に
皆無であるのだろうけれど
それを考える事は
必要だ
人間として。
だけど、
静かに耳を澄ませば
感じている筈なんだ
人間は
宇宙の一部分だから
そんな大スペクタクルを
そっと隠し持っている人間だけど
とても些細な事で
命を繋いでいて
懲りずに、
同じことを何度も繰り返し
輪廻し続ける
「嫌い」も「好き」も
同じくらいの重さで
人間を支配していて
たったそれだけの事が
人間をこの世での色々な物事に
駆り立てている
「今」
人間の確かな存在は
その瞬間にしかない
今、
はっきりと感じている
全ての人々へ
愛を込めて。
Ryoco
20代って、20代である事が誇りであり、そんな小さな括りが刹那である事を知ってか知らずか、向かいつつある30代に恐怖を抱いているものなのかなあって思う。
さて、今日も会社の子たちの会話に驚いた。
30代以上という括りの人たちに向かって、『ほら、大体駄目だな〜って思う人たちは結婚してないよね』とか、『35歳になっても独身だったら、私、焦ってあんな人(駄目だと言われてる人)と結婚しちゃうのかなあ〜』なんて話している会社の子たち。
『え・・・?私、あと3年でその歳だけど?』
みたいな感じでしたわ〜。ついていけない(笑)
世の中には、そんな小さな目に見える尺度だけで、人を判断する人が案外多い。
映画『不都合な真実』を観たのですが、ゴアさんが直面してきた、絶望的な政府の性質。それは、そのまま多くの人間の絶望的な性質にも言えるとつくづく思った。
大小関係なく、人間が創り出しているこの世の中の出来事は、全て、同じ問題を抱えていると思う。
正しい事を伝えようと、その自らが持つ能力を最大限に生かし、情熱を持って世界を飛び回っているゴアさんはかっこいいと思った。
この映画を観て、最近うっすら気がつき始めた事が、いよいよ明確になって来た気がする。
それは、私は自分では違う事を考えているつもりだったりしても、ずっと子供たちの事が気になって仕方がなかったということ。
気がつくと、子供の事、特に、小児がんや難病の子供、様々な事情で施設に入れられている子供などについて調べていたりする。そして、時々、何で私はこんなことしているんだ?って、そのきっかけや経緯が思い出せずにびっくりする事がある。
そのくらい、すっと、無意識のうちに、子供たちの事を気にして来たような気がする。
私自身には、子供に関する経験が全くないけれど、愛する身の回りの人たちの子供と関わる度に、知らず知らずのうちに子供に対する想いが膨れ上がって行ったような気もしてる。
自分で子供が欲しいと言う気持ちも、確かに生まれるし、「自分の子が欲しいね」なんて言ったりもするけど、それ以上に、正確にはそういう事ではなくて、全ての子供たちの幸せについての想いだ。
それは、命は確かにあったのに、産まれるに至らなかった赤ちゃんの死に直面した事から始まったのだと思う。 それから、次々と誕生して行く、かわいい生命たち、そして、一番身近な、我が弟夫婦に授かった新しい命で、より一層想いは強まって行った。
例えば、幸せな子供たちと接っしている時、いつも対極を見てしまう私は、どうしても苦しんでいるかもしれない子供の事が常に気になっていたのだろうと思う。
自分たちの幸せは、自分たち以外の全ての他人の幸せと共に在るべきだと思っているから。
自分の幸せだけを願っている人は、いくら幸せそうであっても、同じ運命をぐるぐると巡っているのだ、という不幸の渦中にあるのだ、と思っている。そして、最大の不幸は、それに気がつけない事だ、と。
私は、こんなだから、結婚していないのかもしれませんね。いつも、人の幸せのほうが大切に思えてしまうから。
はあ。(笑)
ゴアさんの計算で行くと、今のような生活を続けて行くと、約50年ほどで地球は大変な事になるという。
もしかしたら、多くの人たちが、地球に住む事が困難になるかも知れないのだ。
世の中は無常で、何をとっても例外はない。
だから、地球だって人類だって、常に変化している。そして、いつかは必ずなくなってしまうのだ。これは確かな事だろうと思う。いつかは人類も消えるのだろう。
そして、そのころ、今の私は生きていないだろう。
だけど、映画で、50年というひとつの結果予想をつきつけられ、改めてその早さに恐怖を覚えた。
次々と、生まれてくる愛しい命たち。
だけど、その子たちが住む地球がなくなってしまうかもしれない。
それは、とても恐怖だった。
私たちは私たちの手で、終わりを早めていたのに、気づこうとして来なかった。酷い話だ。
子供たちの未来を心配したけれど、もちろん、地球は、私たち人間のものだけじゃない。
子供の人生が閉ざされていようと、地球には関係ないのかも知れない。
でも、そうだろうか?
私たちが目にする、今の酷い崩壊の風景は、私たちに間違いを伝えているのじゃないかなあって思う。
それなのに、人間は成長とともに、地球を破壊し続けてきたんですよね。
地球がなくなるその日に、一番嘆き悲しみ、大騒ぎをするのは恐らく人間だけであるにも関わらず。
私たちは、間違っている事をしていると気がついたら、それを心から反省し、自分の命を最大限に膨らまして、正しい道を模索して行かなければ、死んだも同然だと思う。
地球の環境を守って行こうとする事は、私たちの心の修行のひとつであるのだって思います。
でも、とても複雑です。色々な原因が、今の世の中を形成している。
私たちはその結果のなかに常に存在していて、同時に、未来の原因を生み続けている。
だからこそ、今の幸せだけをみつめるのじゃなくて、同時にそこに在るその見えない裏側を見つめて生きて行かなければいけない。
私たちは、確かに宇宙の一部であり、地中を崩壊する力もあるけれど、修復する力もある筈だ。その与えられた能力をいい方向へ十分に発揮しなければ、と心から思いました。
こうしている間にも、次々と生まれてくる子供たちのためにも。
そして、私に出来るその能力とは何だろうと、考えている。
もちろん、それは今始まった訳じゃなくて、ずっと考えて来た事だった。
特に、友人の死に直面し、その日から全く違う人生になってしまったと感じ、変わり果ててしまった風景と出会ってから、よりいっそうその思いは強くなった。
その答えはひとつじゃないにしても、限られた短いこの一生の中でやるべき事は、もしかしたら子供たちに関わる事なんじゃないかと、ここ最近の生活に散りばめられた言葉や出来事から、感じ始めています。
そして、女に生まれてきている事、そこにもヒントがあるように思っている。女性は、子供がいるいないに関わらず、やはり子供について考え行動していく役割があるような気がする。
以前は、自分の子供、愛する人の子供が欲しくて仕方がなかったけど、今は、必ずしも自分の血を分けた子供、というものに執着がある訳じゃなく、心から、全てのこどもたちの生き生きとした命を、大切に守って行きたいと思う。
そして、心からひとりひとりの命の膨らみ(幸せ)を祈りたいと思っている。
世界を変えて行く、その力もきっかけも、全ての人の手の中に全て詰まっている。
目の前に見えている物事だけに一喜一憂していたら、成長はない。
見えない部分に目を凝らし、耳を澄まさなければ。
それに気がついたら、何でもいいから行動しよう。
そして、みんなが、真に気がついていけますように。
子供たちに、正しく哀しい現状を伝えつつ、絶望の中にも、確かに光がある喜びも伝えて行こう。
ひとりひとりの命の膨らみは、世界はもちろん、宇宙と響きあっている。
私たちは、個であるように見え、実は宇宙と一体であるという事を忘れずに、精一杯生きて行こう。
絶望的な事だらけかもしれないけど、闇雲に絶望しないで。
絶望と対極にある、柔らかくて暖かいものは、常に、ちゃんとここにある。
必ず、道がある。
信じる力を、想像する力を大切に。
love,
Ryoco
※一週間の終わりに、朦朧としながら書いたから、文章的におかしな部分もあるかもしれません。
読みにくかったら、ごめんなさい!
今夜は、ひとまず眠ります。
おやすみなさい。
みなさんも、
よい夜を。
よい週末を。